リトル・ブッダ:ベルナルド・ベルトルッチ

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ベルナルド・ベルトルッチの1993年の映画「リトル・ブッダ」は、仏教の輪廻転生思想と釈迦の修行をテーマにしたものである。キリスト教の教えには、復活の思想はあるが、輪廻転生の思想はないから、キリスト教を信じる人たちにとっては、輪廻転生とか生まれ変わりとかいったことは、荒唐無稽に思われるに違いない。ところがベルトルッチは、これを宗教上の信仰に属する問題だとして、荒唐無稽だとはしていない。こういう考え方もありうるのだという前提で、かなり理解ある描き方をしている。また、釈迦の修行についても、宗教的な啓示を得るための修行だとして、かなり好意的である。

映画は、チベット人の聖人の生まれ変わりが現れたということから始まる。その生まれ変わりの子供を探し出して、できれば宗教的な指導者になって欲しいという仏教者たちの努力がこの映画のテーマである。その生まれ変わりの子供はアメリカのシアトルに住んでいるというので、仏教者たちは亡命先のブータンからわざわざシアトルまで出かけていく。かれらの訪問をうけた子供の両親は、最初はうさんくさく感じるのだが、そのうち、色々な事情もあって、父親が子供を連れてブータンへ向かうのだ。ところが、聖人の生まれ変わりが他にも現れる。しかも二人も。その三人のうち、だれが本当に聖人の生まれ変わりなのか、テストが行われるが、結局三人とも生まれ変わりだとわかる。こういうことも、えてしてありうるらしいのである。

一方、アメリカ人の子供は、釈迦の修行についての絵本を読まされる。その絵本で語られていることが、イメージとなって実現する。そのイメージのなかで、釈迦の誕生から出家を経てさとりを開くまでの過程が表現される。釈迦が行った修業のうちもっとも困難だったのは、悪魔による色仕掛けであった。悪魔は五人の美女を釈迦の前に出現させて、エロチックな仕草をさせ、誘惑しようとするのだが、釈迦はその誘惑を断ち切ったばかりか、悪魔との直接対決にも勝ち、ついにさとりを開くことになっている。美女による性的誘惑が最大の試練だったとするのは、セックス好きのイタリア人らしい発想である。

クライマックスは、聖人の生まれ変わりを率先して探し求めた僧侶が、断食をして死を迎えるところ。仏教者にとって死は、涅槃への入り口を意味し、めでたいことである。その目出度い気持ちを僧たちは御経に込めるのであるが、その御経というのが、チベット語の般若心経だというのである。僧たちが読経するその声は、まさに日本の御経と同じように聞こえる。般若心経は、現世のはかなさを強調している御経だから、こういう場面にはもっともふさわしいと言えるが、それを聞いても西洋人には理解できないだろう。

死んだ僧侶の遺骸は荼毘にふされ、その灰を、三人の生まれ変わりの子供たちが、それぞれ自然に帰すところを映しながら映画は終る。






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