近隣外交:日本とドイツ

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日本と西ドイツの戦後外交、特に近隣諸国との外交関係は、かなり対称的である。ごく単純化していうと、西ドイツはヨーロッパの一員として名誉ある地位を占めたいという希求を抱き続けたのに対して、日本はアメリカへの従属を深め、近隣諸国つまり東アジアの諸国にほとんど関心を持たなかったといってよい。その結果、西ドイツおよびその継承者としての統一ドイツが、今日EUの盟主として、政治的・経済的実力を確固としたものとしているのに対して、日本は東アジアの孤児といわれるような、ある意味情けない状況に陥っている。本来なら、日本は東アジアの盟主として、地域のリーダーになれていたはずが、アメリカへの従属を深めるあまり、自ら孤立を招いたといってよい。

西ドイツの戦後外交は、東ドイツを含めた対ソ連圏外交と、アメリカを含めた対西側外交とに大別できる。対ソ連圏外交においては、西側の一員として対立する立場を選んだ。東ドイツについては、これを国家として認めず、西ドイツがドイツ全体を代表するという立場をとった。これはハルシュタイン原則と言われ、1955年9月にアデナウアーによって表明されて以来、西ドイツの国是となった。その立場から、東ドイツを国家として承認した国とは国交断絶するという姿勢で臨んだ。実際ユーゴスラビアが1957年に東ドイツを国家として承認した際には、国交を断絶した。そうすることで西ドイツは、東ドイツの国際的な孤立をはかったわけだが、東ドイツ自体はソ連の実質的な属国となっており、そもそも国家としての主体性はほとんどないと言ってよかった。

西ドイツのそうした政策に対抗して、東側はベルリンの壁の建設を以て応えた。これは戦後まもなくのベルリン封鎖に続く危機であった。東側は、壁によって東西ベルリンの遮断を狙ったばかりでなく、西側からの空路を制圧し、西ベルリンを兵糧攻めしようとした。かつてのナチスによるレニングラード封鎖を再現しようとしたわけである。この時代が、東西対立がもっとも緊迫した時期だった。キューバでは、ソ連による核兵器配備をめぐって、米ソが武力衝突する危険が高まった。第三次世界大戦の勃発が現実味を帯びた時期である。

しかし、SPDのヴィリー・ブラントが1969年に西ドイツの首相になると、対東側外交に変化が生じた。それまでの対立路線から融和路線への返還が図られたのである。それを称してブラントの東方外交という。ブラントは首相就任に際しての施政方針演説で、東ドイツを国家として承認するとともに東側諸国との関係改善の意向を表明した。その意向を踏まえ、東ドイツやソ連・ポーランド等との外交交渉が進められ、東西両ドイツの関係については、1972年の東西ドイツ基本条約として結実した。これによって、東西両ドイツは、互いに国家として承認しあうまでにはいたらなかったが、事実上の国家として互いに尊重することが取り決められた。中途半端ではあったが、それまでのハルシュタイン原則による敵視政策から、融和政策への転換がはかられたわけである。

ソ連との間では、モスクワ条約を締結し、武力不行使、国境の不可侵がうたわれた。また、ポーランドとの関係では、ワルシャワ条約を締結し、オーデル・ナイセ線をポーランドの西部国境として承認し、その他一切の領土についての返還請求権を放棄した。これによって、長年懸案であった、全ドイツのための国境線が確定したわけである。これには国内における大反発があったが、ブラントはその反発を抑えて、対東側外交で大きな譲歩を行ったのである。またブラントは、ワルシャワのユダヤ人ゲットー跡地を訪ね、ナチスによるホロコーストについて謝罪した。

ブラントの東方外交によって、西ドイツは、対東側との関係においても、安定した状況を作り上げることに成功した。それは、かつての国土の四分の一にあたる部分を放棄するという犠牲を伴ったわけだが、そうした犠牲を払ってでも、西ヨーロッパの一員として今後生きていくことこそ、ドイツにとっての唯一の選択肢だという判断が働いた結果だったと言えるのではないか。

日本の戦後外交は、アメリカへの従属ということにつきる。かつて総理大臣小泉純一郎は、日本はアメリカの言うことさえ聞いていればよい、と言ったが、そういう対米依存心は歴代の自民党政権に共通していたといってよい。そうした姿勢は、東アジアの近隣国に対する、無関心に近い態度をとらせた。それゆえ、日本には、まともな主権国家としての外交政策は、存在しなかったといってよいほどである。

とは言っても、解決すべき課題はあった。まず、旧植民地との過去の清算、及びアジア・太平洋戦争の交戦国であった中国との関係である。旧植民地のうち、朝鮮半島については、南北に分裂して、それぞれが体制の正統性を主張しあうという情況があった。そうした状況で、日本としてはまず、南側の韓国との間で過去の清算をすることになった。この問題については、日本側の積極的なイニシャティブによるものではなく、東アジアで反共国家同士の協力を期待するアメリカの意向によるところが大きかった。

朝鮮戦争後の日韓関係において、大きな課題となっていたのは、韓国側が海洋境界線いわゆる李ラインを一方的に設定し、そのラインの内側で操業していた日本漁船を次々と拿捕していたことだった。日本側は、李ライン問題の解決を含めて、日韓関係の正常化を図ったのだったが、日本側には朝鮮を植民地支配したことについての意識が乏しく、かえって李ラインの不当性を言い立てて、韓国に対して強硬な姿勢をとる始末だった。なかでも重大な効果を及ぼしたのは、久保田発言と呼ばれるものだ。これは日韓交渉の日本側責任者久保田貫一郎が、日本による朝鮮半島支配を正当化するもので、韓国側の大きな反発を招いた。それに対して岡崎外務大臣は、あたり前のことを言っただけだと言って久保田発言を擁護し、マスコミも韓国が感情的過ぎると言って非難した。そういうありさまだから、日韓関係の正常化をめぐる交渉はなかなか進まなかった。

その最大の理由は、日本側に植民地支配についての反省が、ほとんどなかったことである。日本が朝鮮半島に進出したことは、久保田発言にあるとおり、韓国にとってもよかったのであり、そのことで反省するいわれはない。韓国が独立したのは、他の植民地国家のように、独立戦争を勝ち抜いたからではなく、日本がアメリカ以下の連合国に敗れて、不本意な講話条約を結ばされたからに他ならない。だから韓国は日本に対して、あたかも戦勝国のような態度をとる根拠がない。日本から独立できたのは、日本側の恩恵によるものだと思え、くらいの気持ちが、日本側には支配的だったのである。

こんなわけだから、日韓関係の正常化はなかなか進まなかったが、韓国側に朴正煕が登場したことで劇的な展開がおとずれる。朴正煕は、日本が設立した士官学校の出身で、日本に対して特別な親和感情を持っていた。そのうえ、韓国の成長にとって日本の援助がなによりも必要だと考えていた。そういう考えから、日本による朝鮮半島支配の被害をことさらに強調せず、妥協を通じて日韓関係を正常化し、日本から相応の援助を引き出したいという政策をとった。その結果日本側でも妥協に応じ、植民地支配の問題点を曖昧にしたまま、日韓基本条約が結ばれた。日韓関係はいまもなおぎくしゃくとしたままだが、その根本的な理由は、植民地支配の問題を曖昧にしたまま、日韓条約を結んだことにあるといえる。

中国との関係正常化は、1972年までかかった。その年周恩来が来日し、日中共同声明を発表し、さらに1978年に日中平和友好条約が結ばれ、日中関係は最終的な解決をみた。それについては、中国側による賠償請求権の放棄とか、日本側からの経済援助の提供といったことがあったが、日韓関係におけると同様、日本による中国侵略の過去については、十分に議論されることはなかった。





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