饗宴読解その五

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アガトンとの予備的なやり取りをすますと、ソクラテスがいよいよエロースについての自説を述べる段となった。ところがソクラテスは、自説をストレートに述べるのではなく、自分にエロースのことを教えてくれた人とのやりとりを紹介するのだ。そのやり取りの中から、エロースとはなにか、またそれが人間にもたらす贈り物について、おのずから明らかになってくるというわけなのだ。ソクラテスにそれを教えてくれたのは、マンチネイアの巫女ヂオチマだという。

マンチネイアは、ペロポネソス半島のほぼ中央、スパルタの北方にある町で、ペロポネソス戦争中にマンチネイアの闘いの舞台となったことで有名だ。その町出身の巫女ヂオチマがどういう素性の人物なのかよくわからぬが、ソクラテスは彼女を外国人と言っているから、たまたまアテネに来ていた時に、ソクラテスと話す機会があったのだろう。彼女の話しぶりは、この対話篇から受け取れる限りでは、巫女というよりは、哲学者を思わせる。

ソクラテスはそのデイオチマと、エロースについて語り合ったのだったが、アガトンがソクラテスによって困惑させられたと全く同じように、ソクラテスもヂオチマによって困惑させられたのだった。つまり、ソクラテスもアガトンと同じように、エロースとはよきものや美しいものへの希求だといったところ、あなたの説によれば、エロースは美しいものでもよきものでもないと反論されたのだ。驚いたソクラテスが、するとエロースは醜いものであり、つまらぬというのですかと問いただすと、なぜそのようなことを言うのかと、かえってたしなめられる。美しくないからといって醜いということにはならないというのである。そのうえで、正しい思いなしとは、知と無知の中間にあるとヂオチマは言うのだ。

そこでヂオチマは、エロースは、ソクラテスが言うようによき美しいものを欠いているからして、ほかならぬこの欠いているものを欲求するのだということを確認したうえで、よき美しきものを欠いているものを神であるとはいえない、と言う。といって人間でもない。死すべきもの(人間)と不死なもの(神)との中間にあるものだというのである。この中間にあるものをヂオチマは偉大な神霊(ダイモーン)と名付ける。ダイモーンとしてのエロースは、神と人間との中間にあって、「神々へは人間からのものを、また人間へは神々からのものを伝達し送り届けます。つまり人間からは祈願と犠牲とを、神々からはその命令と犠牲の返しとを・・・神は人間と直接に交わるのではなく、神々にとって人間との交際と対話とは・・・すべてこのもの(エロース)を通じて」行うというのである。

ところでエロースは誰から生まれたか。アフロディテが生まれたとき祝宴が催されたが、その場にノチス(巧智)の子ポロス(術策)も加わっていた。そこへペニア(貧窮)がやってきて、自分の子には貧窮を舐めさせたくないと思い、ポロスの子をもうけようと望んだ。かくしてエロースが生まれたのであるが、当然父母の性質を受け継いだ。母からは貧困、父からは貧困をのがれるための術策。というわけでエロースは、父の性のゆえに望むものを手に入れるが、手に入れた先から失ってしまう。母の性の故である。つまりエロースは富と貧困の中間なのである。知と無知に関しても同様であって、エロースはその中間にある。そのエロースは、美しいものを愛し、知を愛するのだが、それは自分に美しさが全く欠けていたり、全くの無知だからではない。美しさに関しても、知に関しても、エロースは中間なのだ。中間の者として、なるだけ完全をめざそうとする。それが、全き美しさや全き智慧への欲求となって現われるのである。

この話は、エロースを恋するものとしてのことであった。ところがソクラテスは、エロースを恋する対象と考えている。そこでエロースに過大な称賛を捧げるようなことになったのである。だがエロースとは、あくまでも恋するものとしてのダイモーンだと捉えなくてはならない。エロース自体が、恋の対象となるものではないのだ。

以上は、エロースとは何かについての議論であった。ついで、エロースが何を人間に授けてくれるのかについての議論に移る。

エロースが人間に授けるのは、簡単にいえば恋心ということになる。人間はこの恋心を以て何かを欲求するのだが、その欲求の対象を恋そのものと勘違いすることがある。そこから先ほど言及したような、エロースについての誤解も生じてくるわけだ。それはともかく、恋心が目ざすのは美しいもの、それも単に刹那的に美しいだけではなく、永遠に美しいものである。そのような美しいものとは、どんなものか。そういった問題意識から、美そのものに関する議論が繰り広げられることとなる。

永遠に美しいものを人間は求めると言った。それは人間の本性に根差している。死すべきものとしての人間の本性は、永遠に存在し不死であることを、できるかぎり求めるものだからだ。しかし死すべきものが、永遠の存在に向かい合うことができるのか。自分自身死すべきものにして、永遠に不死のものを得ることができるのか。

この問いに対しては、できるというのがヂオチマの答えである。人間は、一人の個体としては死すべきものだが、人類としては不死である。なぜなら、一人が死んでも他の一人がその穴を埋め、人類全体としては、死滅することがないからだ。それと同じようなことは、個人の存在についてもいえる。個人はさまざまな部分から成り立っており、そのうちの一部は死滅し、他の部分は新たに生じている。したがって、部分によっては同じものではないが、全体としては同一の人間と言えるのである。ここで、個人における部分を、人類における個人に置き換えれば、個人が死んでも全体としての人類は同一のままということになる。個人はその全体としての人類の存在にあずかっていると考えることができるのだ。そこからヂオチマは、人間にとって大事なことは、子孫を出産することだというのである。

以上は、人間がいかにして不死にあずかるかについてのものだったが、ついで美の永遠性についての議論に移る。永遠の美とは何か、をめぐる議論である。永遠の美とは、永遠に存在して生成も消滅もせず、増大も減少もしないものである。「或る面では美しいが他の面では醜いというものではなく、或る時には美しいが他の時には醜いというのでも、或る関係では美しいが他の関係では醜いというのでもなく、或る人にとっては美しいが他の人にとっては醜いというように或る所では美しいが他の所では醜いというものではない」。要するに絶対的に美しいのだ。

その絶対的に美しいものをヂオチマは美そのものと呼ぶ。そして美そのものの定義についてあれこれと言うのであるが、その言うところの内実は、やがて美のイデアと呼ばれるようになるものを示している。しかし、この対話編では、美のイデアあるいは単にイデアという言葉は使われておらず、美そのものの内実についての議論もあまり深まっているとは言えない。いわば、議論の頭出しをしたといった具合なのだ。だからこそプラトンは、ソクラテスの口から直接語らせるのではなく、ヂオチマの口から、とりあえずのかたちで語らせたのだと思う。







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