パイドン読解その三

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魂の不死・不滅についての議論をソクラテスは、かれ一流のアイロネイアから始める。自殺すること、つまり自分自身を殺すことは許されないと人々は信じているが、それには相応の理由があると言って、その理由を説明してみせるのである。ソクラテス自身は、後に明らかにされるように、死ぬことはよいことだと思っているわけであるが、とりあえずは、世間の人びとに譲歩して、死ぬことはよくないという主張を受け入れ、その理由をあげる。なぜよくないのか。ソクラテスは次のように言う。神々は人間を配慮するものであり、人間は神々の所有物(奴隷)なのである。ギリシャ人としては、これには何らの異存もない。ギリシャ人にとって、神々と人間との関係はそのようなものだからだ。そうだとしたら、所有物が所有主の意向をまったく無視して、自分勝手に自分を毀損することは、道理に反したことだ。我々普通の人間だって、自分の所有物が、自分の意思に反して自分自身を殺すとしたら、腹を立てることだろう。このような理由によって、人間は勝手に自殺してはいけないのだ、というわけである。

ソクラテスのアイロネイアは、こういう主張をそのまま受け入れて、それを自分の議論の前提とはしないことだ。こういう主張があることを認めたうえで、自分はそれとは違う考え方をしていると言い、その考え方の筋の通った合理性を証明してみせる。そうすることで、つまり反対意見と比較検討することで、自分の議論に強固な支えができると考えるのである。それにしても、自殺することは神々の手前許されないことだといいながら、他方では、死ぬことはよいことだという。この二つは相容れないことだと思われ、実際、ケベスやシミアスは疑問を呈するのだが、ソクラテスはかれらの疑問をいいことに、議論を吹きかけるのである。

ソクラテスはなぜ、死ぬことはよいことだと考えるのか。その理由をソクラテスは二つあげる。「第一に、この世を支配する神々とは別の賢くて善い神々のもとにこれからいくだろうということ、第二に、この世の人びとよりはより優れた死んだ人々のもとにもいくだろうということ」、これらのことを信じているからだというのだ。つまりソクラテスはこういうことで、自殺を禁止しているのはこの世の神なのだから、それよりも賢くて善いあの世の神々の前では、影が薄い、あの世の神々に仕えることができれば、この世の神々に多少怒られても仕方がない、と弁明しているように聞こえる。

ソクラテスがこう言うわけは、自分は死後も亡びることなく、生き続けるという確信があるからだろう。死後にも生き続けると信じるのは、人間についての特殊な見方が前提にある。その見方とは、人間は魂と肉体とから合成されており、肉体は有限なものとして亡びる運命にあるが、魂は不死・不滅のものとして、生き続けるというものである。ソクラテス自身は、そう考えているわけだ。もっともこの考えは、ソクラテス自身のオリジナルな思想ではなく、プラトンのものである。プラトンが自分の思想をソクラテスに語らせているのである。その思想、つまり人間が魂と肉体からなっていること、その肉体は魂の牢獄であること、その牢獄から解放された魂は、肉体が滅び去ったあとも永遠に生き続けるといった考えを、プラトンはシケリア島のピタゴラス派から学んだようである。

我々が死と呼んでいるのは、魂と肉体が分離することだとソクラテスはいう。分離したあと、肉体のほうはすみやかに亡びる。それを我々は死んだというふうにいうのだが、死んだのは肉体だけであって、魂は死んではいない。肉体から分離して自由な状態になっただけの話だ。それはかえって人間、とりわけ哲学者のような思索する人にとっては、望ましいことなのだ。我々は、生きている間は、肉体から発せられるさまざまな欲望の傾向にさまたげられて、純粋に思索することが困難である。ところが死ぬことで魂が自由になれば、肉体の邪魔を全く受けずに、魂としての純粋な思索に耽ることができる。それゆえ哲学者は、「ただひたすらに死ぬこと、そして死んだ状態にあること、以外のなにごとをも実践しないのだ」。

魂としての純粋な思索とはどのようなものだろうか。魂は、肉体と結びついている時は、聴覚、視覚、苦痛、快楽といったさまざまな感覚に惑わされて、純粋な思索をするとことができない。肉体と離れることで、諸感覚に惑わされることなく、真実在について思索することができる。真実在というのは、「それぞれのものが正にそれであるところのもの」つまり本質のことである。この本質をソクラテスは、やがてイデアという言葉で呼ぶようになるが、そのイデアなり本質は、魂が諸感覚に煩わされることなく、純粋に思索することによって得られる。

純粋に思索する人は、「できるだけ思惟そのものによってそれぞれのものに向かい、思惟する働きの中に視覚を付け加えることもなく、他のいかなる感覚を引きずり込んで思考と一緒にすることもなく、純粋な思惟それ自体のみを用いて、存在するものそれぞれについて純粋なそのもの自体のみを追求しようと努力する人である」。そのような人にとって、もっともふさわしいあり方は、肉体の拘束から全面的に解放されて、魂そのものとして存在するあり方である。そうしたあり方を、人々は死という。

だから、純粋な思索を目的とする人には、死は望ましいことなのである。ソクラテスはいう、「そもそもロゴスと共にある探求においては、われわれを目的地へと導く近道のようなものがあるらしい」と。この近道こそ、死だというわけである。「というのは、われわれが肉体を持ち、われわれの魂がこのような悪と混合されている限りは、われわれはわれわれが望むあの真実を決して十分に獲得することはできないからだ」。ソクラテスにとっては、肉体は悪と同一視すべきものなのである。

そんなわけであるから、真の知を獲得できるのは、死者によってのみ可能なのである。「死んだ時にはじめて、魂は肉体から離れ、自分自身になることだろう。死ぬ前には駄目なのだ」。

ソクラテスがこう確信を込めて言い、それに対して聴衆の大部分が、というのはアテナイの人ということだが、かれらが大した疑念を抱かない様子であるのは、ソクラテスの主張する人間観に同意しているからだろう。すくなくともアテナイの人にとっては、人間が魂と肉体の結合したものだとするソクラテスの意見に、強い反対はしていないようだ。この時点でのソクラテスの人間観・霊魂観は、ピタゴラス派の影響を受けていると指摘されるが、ピタゴラス派の影響を待たないでも、そういう人間観・霊魂観は、ギリシャ人の間に一定程度共有されていたと考えられるのではないか。

ところでそのピタゴラス派から学んだケベスとシミアスは、人間が死んだ後は、魂もいずれ死ぬのではないかという意見を提出するのだが、彼らにしても、人間が魂と肉体とが合成したものという考えには反対していない。要は、ソクラテスのように、魂は肉体から離れたあとも不死・不滅のものとして存在するのか、それともいずれ近いうちに消滅してしまうのか、そこの考えに違いがあるに過ぎない。

このように人間を魂と肉体が合成したものと考えるのは、なにもギリシャ人だけではない。日本人の祖先たちもそのように考えていた。日本人の祖先たちは、魂が肉体から分離したまま、いつまでも戻らない状態を死と観念した。だいたい人間というものは、しょっちゅう気絶するもので、気絶しているときには、魂は肉体を離れてどこか別の場所をさまよっているのである。ふつうは、そういう状態は長くは続かず、魂は遠からず肉体に戻ってくるのだが、それがいつまでも戻る様子がないと、人々は死んだというふうに観念したわけである。






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