おかしな二人組:大江健三郎「さようなら、私の本よ!」

| コメント(0)
大江健三郎は、小説「さようなら、私の本よ!」を、「取り替え子」及び「憂い顔の童子」と併せて、「おかしな二人組」三部作と自ら呼んでいる。いずれにもおかしな二人組が出て来るということらしい。たしかに第一作目の「取り替え子」については、大江の分身というべき古義人と伊丹十三をモデルにした塙吾良が二人組、それもかなりおかしな二人組を作っているとわかる。ところが二作目の「憂い顔の童子」は、誰と誰がおかしな二人組なのか、よく見えてこない。この小説で古義人と最も親密にかかわるのはニューヨーク出身の女性研究者ローズさんなのだが、そのローズさんは、古義人とセックスするわけでもなく、また古義人の求愛を拒んだりして、どうも二人組として一体的に見えるようにはなっていない。その反省があったのかもしれない。三作目の「さようなら、わたしの本よ!」では、おかしな二人組が極端といってよいほど、可視化されているのである。

この小説には、椿繁という変わったキャラクターの人物が出て来る。これが古義人とともに、おかしな二人組を、明示的な形で形成するのである。この人物は、古義人の子どもの頃からの幼馴染であったが、ただに幼馴染というにとどまらず、かなり奇妙な縁で結びついていた。古義人の母親と椿繁の母親は親しい間柄で、上海で暮らしていた椿繁の母親は戦争末期に息子を古義人の母親に託したのだったが、その際に、古義人と椿繁は深い因縁で結びついていることが強調された。どちらの一方も、もう一方を自分自身の代替的な存在としており、自分が死んだら、相手が自分のかわりとなるし、逆に相手が死んだら自分が相手のかわりとなるというふうに確認されるのである。これは、二人の人間が一卵性双生児以上に親密に結びついているということをあらわす。つまり二人は相互に取り換えのきく存在なのである。そうした意味では、もう一つの「取り替え子」といってよい。

ところが、この二人はかならずしも仲がよいわけではなく、人生の大部分を別々に過ごしていたのだが、お互い七十歳近くになって、老年を一緒に過ごそうということになる。椿繁のほうは、アメリカで建築家として暮らしていたのだが、それが日本に戻って来て、晩年を古義人とともに暮らす気になったのは、一つには古義人の娘からの熱心な願い、つまり父親の近くにいて、なにかとふさぎ込みがちな父親を励ましてほしいという願いに応えたということもあったが、何といっても、子どもの頃から宿命づけられていた二人の特別な間柄が、自分の片割れである古義人に引き付けさせたのだとことではないのか。

二人は北軽井沢にある古義人の別荘で共同生活を始める。その別荘には二つの建物があって、古い方の建物は椿繁も設計に携わったということになっているが、その別荘全体を椿繁に買ってもらい、古い方の建物に古義人が、障害のある息子と一緒に住むことになる。別荘全体を椿繁に売ったわけだから、古義人は借地人のような立場になったわけである。

その別荘を舞台に、椿繁はあるプランを考え出す。そのプランにはいくつかの意義が込められていたのだが、その一つは、この別荘での出来事を通じて古義人の創作意欲を刺激し、新たな小説の材料を提供してやろうというものだった。その小説の仮の題を、椿繁と古義人は「ロバンソン小説」と呼ぶのだが、それはセリーヌの小説「夜の果てへの旅」に出て来る二人の主人公の片割れの名前なのだ。というと、この小説は、大江の例の引用癖を反映して、セリーヌが大きなテーマになっていると思われがちだが、実際にこの小説で大きな意義を持たされてたびたび引用されるのはT・S・エリオットなのだ。T・S・エリオットには、不機嫌な老人をモチーフにした詩があるのだが、大江はそれを度々引用する。不機嫌な老人というテーマはイェーツも取り上げていて、大江は他の小説でそれを引用していた。よほど気にかかったモチーフなのだろう。

さて、椿繁が古義人のために考え出した小説のプロットと、その材料となる出来事というのは、全世界を混乱させることを目的としたテロなのだった。そのテロは、とりあえず東京の超高層ビルを爆破し、人々に9.11テロの恐怖をよみがえらせる一方、世界中のテロリストを動機づけて、世界同時一斉テロを誘発しようというものだった。椿繁は、その計画が実現されていくプロセスを古義人に目撃させることで、それをもとにして、ロバンソン小説を書かせようとしたのである。

この小説には、もう一組の二人組が出て来る。武とタケチャンである。この二人は、最終的に椿繁の計画を実行することになるのだが、ただに指示通りに実行するのではなく、自分らの判断で勝手な行為に走り、その結果古義人の住んでいた建物を、予定外のスケジュールで爆破してしまい、あまつさえタケチャンのほうは爆破にまきこまれて死んでしまうのだ。それも建物周囲に組まれていた足場の鉄パイプが、額に突き刺さるという悲壮な死に方だった。ともあれ、武とタケチャンという二人組も、この小説のなかではかなり重要な役割を果たすので、この二人組をおかしな二人組と呼んでもよいくらいだ。

おかしな二人組という点では、もう一組を指摘することができる。それは古義と、かれの内部にあるもう一人の古義人だ。それを古義人は、「自分の中に住みついているおかしなところのある若いやつ」と呼んでいるのだが、それは無論実在する人物ではなく、また、古義人と外的な形でかかわるわけではない。古義人の内面にあって、機に乗じて古義人の意識の表層に浮かび上がって来ては、古義人を鼓舞するのである。そういう点では、ソクラテスにとってのダイモーンのようなものといってよい。ただし、ソクラテスのダイモーンは、つねにソクラテスを諫めて、無謀な行動をしないように引きとどめていたのに対して、このおかしなところのある若いやつは、つねに古義人を唆して、冒険に走らせるのである。

この小説は、以上に言及した三組の二人組が、もつれ合うようにして事態を前へ前へと進めていくように構想されているといってよい。小説全体の枠組みをリードしているのは古義人と椿繁の二人組だが、それに武とタケチャンがサブプロットを通じて塩を利かせ、また古義人が自分の中に住み着いたおかしなところのある若い奴に唆されながら、小説全体を前へ進める原動力を得ているというようなふうに言えるのではないか。






コメントする

アーカイブ