パイドン読解その七

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ソクラテスがアナクサゴラスに失望したワケは、アナクサゴラスが世界の究極原因としてのヌースを折角思いついたにも拘わらず、実際に世界における物事の原因を説明する段になると、他の自然学者と異ならない態度をとったことにあった。ソクラテスとしては、ヌースを究極原因として、それに基づいて世界の生成と消滅を説明して欲しかったわけだ。ヌースを説明原理とするといっても、単にむき出しのままのヌースでは能がない。ヌースつまり精神の産物であるような原理、そういうものが説明原理としてふさわしい。ソクラテスにとって、そのような原理とはイデアにほかならなかった。イデアはソクラテスによれば、自己同一的でしかも永遠に亡びない。もし魂がこのイデアと同じようなものであれば、魂の不死・不滅を証明できることになる。

そこでソクラテスは、まずイデアがどのようなものかについての説明から始めるのであるが、それに先立って、自分の論証の正当性を主張するために、自分の思考のスタイルについて説明する。それは仮説演繹法というものだ。あきらかに真実だと思われることがらを前提に(仮説として立て)、そこからほかの事柄を演繹的に説明していくやり方である。このやり方をソクラテスは、ロゴスにもとづく思考というふうに言っている。「それぞれの場合に、僕がもっとも強力であると判断するロゴスを前提として立てたうえで、このロゴスと調和する(整合的である)と思われるものを真と定め、調和しないものを真ではないと定めるのだ。問題が原因についてであれ、その他の何についてであれ、同様である」

ソクラテスが言っているのは、論理的な整合性ということらしい。一方、論理的な整合性に先立つ、仮説(前提)の信憑性については、ソクラテスの直観の産物であるように語られている。ソクラテスは、「あきらかに真実だと思われることがら」と言っているが、なぜそれが明らかに真実と思われるのか、その根拠は示していない。ソクラテスの時代には、帰納法という概念がなかったようなので、仮説の実証的な正当性ということについて、意識が低かったように思われる。

さて、イデアとはどのようなものか。美についていえば、あるものを美しくさせている原因のことである。それをソクラテスは「美そのもの」という。「美によってすべての美しいものは美しい」。善についても、大についても、その他すべてについても事情は同じである。このイデアを前提とするなら、魂が不死であることを説明できるだろう、とソクラテスはいうのだ。

イデアの例としてソクラテスは、大そのものという概念をとりあげる。その説明がソクラテス一流のやり方で、かなりわかりにくいところがある。ソクラテスは次のようにいうのだ。ある者が他のものより頭一つ分だけ大であることについて、そのものの大である原因は頭であるとは言えない。また、その者がほかの者より頭一つ分だけ小さい場合にも、彼が小さい原因は頭であるとはいえない。彼が他のものより大である原因は「大」そのものなのであり、小である原因は「小」そのものなのだ。これは我々には同義反復のように聞こえる。かれが大きいのはかれが大きいからだ、といっているように聞こえる。それでは説明になっていないと思えるのだが、ソクラテスはそう思わないらしい。

ついでソクラテスは、数をとりあげる。数にもイデアがあるというのだ。一に一が付加されると二が生じる。また一を二つに分割しても二が生じる。これについて、付加が二が生じる原因であるといったり、分割が原因であるとはいえない。二が生じることの原因は、二を分有することである、と。これもまた奇妙な議論だ。これが二なのは、それが二だからだ、といわれているようなものだ。

ともあれソクラテスは、あらゆるものにはそれに対応する形相(イデア)が存在すること、個々のものはその形相にあずかることによって、その形相の名に従って呼ばれる、ということを確認する。こう確認したうえで、シミアスがソクラテスより大きく、パイドンより小さいというケースでは、シミアスはソクラテスの小に対して自分の大を差し出し、パイドンの大に対しては自分の小を差し出す。この場合大事なのは、シミアスが大のイデアと小のイデアにそれぞれ預かっているということだ。大は大でありながら小であることはあえてしない。こうソクラテスはいうのだが、どうも納得しかねるところがある。

大は大でありながら小であることはあえてしないとは、同時に反対のものであることはできないということだ。それについて誰かが疑問を呈した。先立つ議論の中では、小さなものから大きなものが生じ、死から生が生じると言った具合に、物事は反対のものから生成すると認めたではないか。それと今の議論とは矛盾するのではないか、というのである。それに対してソクラテスは、先の議論では、反対性格をもつ事物について語っていたのであり、いまはその反対の性格自体について語っているのだから、矛盾はないという。これもわかりかねる言い方である。

ソクラテスがこう言ったワケは、ある事物は異なったイデアを同時に分有できるが、そのイデア同士は同時に反対性格のまま共存できないということらしい。たとえば三という数字は、三のイデアと奇数のイデアを同時に分有するが、偶数のイデアを分有することはできない。三が分有している奇数のイデアが、反対性格を持つ偶数のイデアと共存できないからだ。

以上の議論を踏まえてソクラテスは、いよいよ魂の不死の証明に取り掛かる。その議論はかなり乱暴なものである。ソクラテスは、身体に何が生じると、それは生きたものになるかと問い、魂が生じるからだと確認することから出発する。魂はこの場合、身体に生をもたらす原因なわけだ。ところで生の反対は死である。だから魂は絶対死を受け入れることはないだろう。死を受け入れないものを我々は、不死と呼ぶ。それゆえ魂は不死なのである。

ソクラテスはそういうことによって、魂の不死についての証明が果たされたと考えたのだが、果たしてそのとおりなのだろうか。ソクラテスの議論は、多少混乱しているようである。というのもソクラテスは、身体を生きたものにする原因として魂に言及したのだから、死を問題にする場合にも、身体を亡びさせる原因として説明すべきだったのだ。それなら、身体が同時に反対の性格をもつものを受け入れられないとして納得できる。しかしソクラテスはいつの間にか問題を、身体から魂へとすりかえている。身体が同時に生きる原因と死ぬ原因を共有できないというべきところに、魂と死とは同時に共存できないというふうに言い換えているわけだ。しかしどこで共存するのか。ソクラテスは、魂のなかで、魂と死とが共存できないと言っているのである。これは論点を混乱させる言い方ではないか。

そんなわけで、魂の不死についてのソクラテスの証明はアクロバット的である。そのアクロバット芸を支えているのは、存在とロゴスとを同一視する見方ではないか。魂は、ロゴスによって生命の原因と定義されることはある。したがってロゴス的には死を受け入れない。だからといって、現実の魂を不死のものと断定することはできない。それなのにソクラテスは、ロゴス的に死と反対ならば、存在論的にも死と反対のもの、つまり不死なるものと結論付けるのである。






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