円山応挙:作品の鑑賞と解説

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十八世紀の後半、徳川時代の半ば頃に、日本画は円熟期を迎える。伊藤若冲、曽我蕭白、池大雅、与謝蕪村といった画家たちが輩出し、それぞれ独特の境地を開拓して、人々の支持を得た。そのなかで円山応挙は、写生を重んじ、写実的な絵を描いた。円山応挙が出ることによって、写生画への関心が一気に高まったのである。

その様子を同時代の文学者上田秋成は「絵は応挙が世に出て、写生といふことのはやり出て、京中の絵がみな一手になったことじゃ」と言っている(肝大小心録)。実際円山応挙が出た後、写生的な絵は日本画の一大潮流として今日にいたっている。

円山応挙の写生画が流行した理由を上田秋成は、「狩野家の衆がみな下手ゆえのことじゃ」と言っているが、当時徳川幕府の御用絵師としての狩野派は、創造力を欠如して、マンネリに陥っていた。そのマンネリを打破するかのように、円山応挙やその同時代人たる伊藤若冲以下の新鋭画家が絵画の世界に新風を吹き込んだのである。

写生画といっても、今日の西洋画風の写実主義ではない。円山応挙の写生画は、日本画の伝統を踏まえたうえで、そこに写生の技術を取り入れたのである。したがって構図は伝統的なものを感じさせるし、人物の描き方にしても、やや類型的なところも感じさせる。

池大雅や与謝蕪村が武士階級の支持を受けたのに対して、円山応挙やその弟子たちの絵は、豪商を中心として町人階級の支持を受けた。町人の実際的な気風が、円山応挙の写生画に馴染ませたということであろう。

ここではそんな円山応挙の作品から代表的なものを取り上げて、鑑賞しながら解説したい。なお、上の絵は、国井応祥の手になる応挙像である。農民出身の応挙の朴訥な人柄がよくうかがわれると言われる。






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