華厳哲学の存在論:井筒俊彦

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井筒俊彦の著作「コスモスとアンチコスモス」の冒頭を飾る論文「事事無礙、理理無礙」は、華厳哲学及びイスラーム神秘主義の存在論を通して、東洋的な存在論の(西洋に比しての)基本的な特徴について考察したものである。事事無礙は華厳哲学の、理理無礙はイスラーム神秘主義者イブヌ・ル・アラビーの、それぞれの存在論を規定する中核的な概念である。それらを詳しく検討することで、東洋的なものの見方・考え方が、とくに存在のそれについて、明瞭に浮かび上がってくると井筒は考えるのである。

井筒によれば華厳哲学、それはとりあえず大乗仏教の経典たる華厳経に盛られている思想ということだが、その華厳哲学のキー概念として「四法界」とか「四種法界」とかいうものがある。華厳経といえばすぐにこれらの言葉が思い浮かぶほど、華厳経の基本思想だと井筒は言う。その四つのものは、事、理、理事無礙、事事無碍からなる。「事」というのは、我々日常的経験意識にあらわれるものをさしている。我々の日常的意識は、あるものをほかのものとは差別化されたものとして見る。AにはAの本性があり、BにはBの本性があって、それらは互いにはっきりと区別される。その区別を華厳哲学では「存在論的境界線」というらしいが(これは井筒が華厳哲学を説明するものとして発明した言葉だろう)、それによって区別されたものを「事」というのである。そして「事」を「事」たらしめているもの、「事」の本性を「自性」という。仏教に無自性という言葉があるが、これはものの本性がなくなった状態をいうわけである。

「事」は、日常的な意識つまり表層意識によって捉えられるものだが、それとは別の次元で、すなわち深層意識の次元でとらえられるものがある。西洋哲学は伝統的に深層意識を軽視あるいは無視してきたのだが、東洋思想においては、この深層意識のほうが表層意識より重視されてきた伝統がある。そのことについては、これまでも折に触れて紹介してきたところだ。仏教などは、表層意識に見える世界を妄念の生みだした虚妄とし、真実の実在は深層意識によって捉えられると強調している。華厳哲学も又、仏教の一流派として、深層意識によって捉えられたものを重視する。仏教はそれを「無」とか「空」という言葉で表現するが、華厳哲学はそれを「理」というのである。

「理」においては、事物を事物として成立させる相互間の境界線あるいは限界線は取り払われて、すべてもものが渾然一体となって、たがいに融合しあう。世界が、分節(相互に区別)される以前の状態で、一気にその全体をあらわすのだ。それを華厳経は「海印三昧」と呼んでいる。それを見た人は法悦の境地に遊ぶことができる。これは、日常的な意識から離れて深層意識に深く入り込むことによってはじめてもたらされる境地なのであるが、それは日常意識にとってみれば、存在解体というふうに見える。いままで明確な境界線を以て事物として存在していたものが、その境界線を取り払われてほかのものと融合してしまうわけだから、そのものの存在が解体するのと変わらないわけである。これはあくまでも、表層意識にとっての捉え方だが、その表層意識にあくまでもこだわる西洋的な思想からすれば、「存在解体」として映るほかはない。ここでいう「存在解体」とはだから、西洋思想の立場にたった言い方である。

存在解体された事物は、すでに事物としての自立性を失っている。その自立性を仏教では「自性」といったわけだから、それを失うことは「無自性」になることである。「無自性」のものは、そのもののそのものとしての本性を失い、したがってなにものでもなくなるかといえば、かならずしもそうではない。仏教の流派のなかでも禅などは、「無自性」になることで、虚妄が虚妄としての本来の姿をあらわすと、かなり否定的な主張をするが、華厳経はそうではない。つまり、「存在解体」は終点ではなく、通過点なのだ。どういうことか。

「理」は「事」が存在解体されたことで現われる世界だが、そこにおいては、あらゆるものが、単独ではなく、ほかのすべてのものとの深い関連において現われる。というか、世界が全体としてそっくりそのまま現出し、そこにおいては、事物と事物とのあいだに境界がないということである。境界がないというのは、つまり分節されていないということだ。分節をもたらすのは言葉であるから、分節されていないということは、言葉以前の段階にあるということだ。「理」の世界とは、言葉によって分節される以前の、言葉なき世界なのである。その言葉なき世界に、言葉による分節が加えられることで、日常的な経験世界が成立してくる。井筒は、存在解体された「理」が、いかに「事」に戻って来るか、それに着目しながら、そこに華厳哲学の大きな特徴を見ようとする。

いったん「理」の世界を見た者は、そうではない者とくらべて、「事」の世界を違った目で見る。「理」の世界を見たことのない者は、事物を単純に独立したものとみる。普通の人と全く変わらない見方をするわけである。事物は他のものとは区別された、そのものとして、実体的にとらえられる。ところが「理」の世界を見た者は、そのようには見ない。あるものは、それ自体が独立した個別的な存在ではなく、世界全体との深い関わりあいにあるものとして映る。つまり全体の一部として、ほかのあらゆるものとの関連において、事物を捉えるわけである。これは「理」を通じて「事」を見る見方ということになる。「理」と「事」とが深く融合しあっているわけである。その状態を華厳哲学は「理事無碍」と表現する。「無礙」とは隔たりがないことを意味する。

このように「理」を通じて「事」を見るというのが「理事無礙」の意味するところである。「無」を見て来た目で「有」を見る、「無」と「有」とを二重写しに見る、ということだ。ここに華厳哲学の大きな特徴があるわけだが、これは華厳哲学だけの特徴ではなく、東洋思想のいずれもが多かれ少なかれ持っている特徴だと井筒は言う。

以上の事態を井筒は次のように言い現わしている。「華厳の哲学的思惟は、素朴実在論的意味での『事』の否定から出発して、『空』に至り、そこから返って、『事』の復活に至る。第一次的『事』から第二次的『事』へ」。このプロセスを理事無礙といったわけだが、華厳の四種法界は、これで完結したことにならない。これに「事事無礙」が加わって完結する。では、「事事無礙」とはなにか。

「理事無礙」とは「無」と「有」とが二重写しになった状態をいうが、それを別の言葉で「性起」という。「有」が「無」を背負った状態で現われる、つまり孤立した実体としてではなく、すべての存在との相互関係にあるものとしてあらわれる、そうした事態を「性起」というわけである。これはまた「縁起」とも言われる。縁起もまた、ある事物が孤立してではなく、全体の一部として、他のものと同時に現われる事態をさすが、「性起」が事物の「理」との関係に着目した言い方なのに対して、事物相互の関係に着目した言い方のようである。事物相互の間に決定的な断絶はない、といった事態を「事事無礙」という言葉で表現しているようである。

「縁起」という言葉を聞くと、我々には倫理的・宗教的なイメージが思い浮かぶと思うが、ここではそれとは異なって、あくまでも存在論的なコンテクストで使われているわけである。







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