敗戦後論:加藤典洋

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加藤典洋の「敗戦後論」は、日本の戦争責任を論じたもので、発表当時左右両派から厳しい批判を巻き起こし、大きな論争に発展した。その論争を筆者は知らなかったので、何とも言えないが、今からこの本を読みながら思うのは、1995年という戦後半世紀たった時点でもそんな論争が起ったことに滑稽さを感じながら、その滑稽な状況が今なお続いているということだ。加藤は先日死んでしまったが、かれが生きている間には、かれの投げかけた問題意識に応えられるようななりゆきには、ならなかったし、この国は今後もそうはならないのではないかと、ちょっと思ったりもする。

筆者が読んだちくま文庫版の「敗戦後論」は、論争を巻き起こした論文「敗戦後論」に、「戦後後論」、「戦後以後」という二本の論文を加えて三部建てにしている。第一部の「敗戦後論」は、日本人が何故いつまでも戦後を清算できないのかという視点から、日本の戦争責任を論じたもの。第二部の「戦後後論」は、政治と文学という視点から、戦争責任を考えたもの。そして第三部は、共同性と公共性という一対の概念セットを持ち出しながら、戦争責任を論じる際の参照軸のようなものを提示する試みだ。

第一部の主張は、簡単にいうと次のようなものだ。日本の戦後は奇妙なねじれから始まった。それはいわゆる平和憲法を、外国つまりアメリカによって力づくで押し付けられたのに対して、日本人はそれに自覚的でなかった。その結果、日本人はある種の分裂症に陥った。いわばジキルとハイドを思わせるような分裂した状態となって、ジキルの面で戦争責任を認めて謝罪するかと思えば、ハイドの面がそれをただちに打ち消して居直る。こうした態度を、諸外国からは矛盾したものとして受け取られ、その結果日本という国は信用されることがない。

日本人が先程述べたねじれを清算出来ていないことは、戦争による死者の弔い方についての日本人の分裂したあり方にもあらわれている。所謂護憲派は、アジアの戦争被害者二千万をまず弔って、日本の戦争責任について謝罪することが先決だと言い、改憲派は、そうしたことには知らぬ顔をして、日本人の死者、とりわけ戦争を戦って死んだ人を弔うのが先決だと主張する。要するに、基本的なところで分裂があるわけだ。そういうふうに基本的なところで分裂していては、国民が一体となって戦争責任に向き合うことはできない。それができるようになるためには、戦争によって死んでいった内外の人びとの弔い方についての共通した了解がなければならぬだろう。その了解はどのようなものであるべきか.そう加藤は問うて、まず日本人同胞310万人を先に弔って、そのうえでアジアの2000万人を弔うという可能性はないのかと、問題意識を提示するのである。そうすれば、右も左も、そろって日本の戦争責任に向き合えるのではないか、というわけである。

加藤のこの問題意識に対して、左右両側から厳しい批判があったわけだ。右側からの批判は、あまり生産的なものではなかったようで、加藤はこの本の中で全く触れていない。左側からの批判は、高橋哲也に代表させているが、高橋の主張というのは、加藤によるまとめによれば、どうも、加藤が日本人のナショナリズムに肩を持ちすぎるということらしい。

第二部では、文学を通じて戦争責任を論じているわけだが、それを加藤は政治と文学の対立というふうに定式化し、文学の側には、ノン・モラルという視点を持ち込んでいる。文学にも政治を持ち込みたがる人々は、とかくその政治をモラルによって基礎づけたがるが、文学の本来的なあり方にとっては、モラルは周辺的なテーマでしかありえない。だから、そのモラルを文学の核心に据えようとすれば、それは文学の自殺につながる。とはいっても、いくら文学の特権を振りかざしても、戦争責任を曖昧にすることは許されぬだろう。そういう問題意識から加藤は、戦後の日本の文学者たちが、いかにノン・モラルの姿勢を貫きながら、戦争責任の問題に誠実に取り組み得たか、ということに拘りながら、論を展開していくのだが、その論旨は必ずしもわかりやすくはない。それは、かれの言うノン・モラルを包みこみながら、しかも戦争責任にもきちんと向きあえるような参照軸を、この論文のなかでは提示できていないからだと思う。

その参照軸を、提示しようとする試みが、第三部でなされる。ここで加藤は、共同性と公共性の対立という一対の概念セットを提示する。共同性は、わかりやすく言えば、ナショナリズムにかかわることである。日本の戦後の論議はもっぱらこの共同性を土台に行われてきており、その点では右も左もかわらなかった。右は共同性をもとに狭いナショナリズムに拘って来たわけだし、左のほうは、その狭いナショナリズムを超えて普遍的なものをめざしたわけだが、それは方向を逆にした共同性論のあらわれに過ぎないというのが加藤の捉え方で、そうしたものを偽の対立と断罪しつつ、真の対立軸として、共同性に公共性をぶつけるわけだ。

この公共性の概念を加藤はハンナ・アーレントを手掛かりにして打ち出している。手短にいえば、共同体から解放された形での、人間としてのあり方に基づく人間同士の関わり合いを公共性と加藤は言っているわけだ。そしてこの公共性に基づけば、日本の戦争責任はもっと広々とした視野から論じることができる、と考えているようだ。加藤の考えの基本は、日本人はきちんとした形で、それも民族として一致した形で、戦争責任を認め、被害を与えた国や人に謝罪すべきだということであり、それをきちんと果たさない限りは、日本人はいつまでも戦後から脱却できないということだ。その責任を果たすうえで、日本人全体が、共通した議論の土台に立てるものとして、この公共性の概念が役立つにちがいないと、考えるわけである。

以上は、この本の骨格にかかわる指摘である。そのほかこの本には、なかなか考えさせてくれるような、個別的な論点も散見される。それについていくつか触れたい。

加藤は、戦後の日本で、政治と文学についての論争が繰り返し行われたことにふれ、その都度イニシャティブをとったのは、文学の側に立つ方で、政治を重視する立場は旗色が悪かったと言っている。そう言いながら加藤は、文学至上主義者たちのほうに好意的である。たとえば吉本隆明の評価などは、筆写も意外に思うほど高い。政治を毛嫌い(するふりを)した小林秀雄については、さすがに厳しい言い方もしているが、概して文学におけるノン・モラルの主張者には好意的だ。その理由は、この本からはかならずしも明らかには伝わってこないが、どうも、加藤としては、政治の主張者がよりどころとする、いわゆる正義への懐疑にあるようだ。この世には、万人にとって異議のない正義などは存在しない。だからそんなものを根拠にして、政治を文学に持ち込むのはナンセンスだと言いたいようである。そう言いながら加藤は、戦時中に政治的な発言をした文学者と、政治を表向きは超越して見せようとした文学者とを、いわば十把一絡げ扱いしているが、それはちょっとアンフェアではないのか。小林のように、政治を超越して見せようとした文学者がかならずしも非政治的ではなく、また、時流に乗ることで大御所扱いしてもらったのに対して、時流に逆らって「政治的に」振るまった文学者が臭い飯を食わされたという史実もある。そのへんは、もっとバランスよく目配りしないと、一面的な見方に陥るというものだ。

その他にもアーレントの捉え方とか、直接(戦争に)手を染めていない後世の人間の責任の問題とか、色々とあるのだが、ここでは紙幅のこともあるので、ここらで切り上げようと思う。





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