テアイテトス読解その三

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産婆術の比喩を述べた後ソクラテスは、いよいよ本題に入っていく。それも単刀直入に。つまりソクラテスは、「何がそもそも知識であるか試みに言ってみたまえ」と、テアイテトスにいきなり問いをぶつけるのだ。すでに産婆術の比喩によって、自分の腹のなかにあるべきものに自覚的になっていたテアイテトスは、このソクラテスの問いに対して率直に答える。「何かを知識している人というものは、知識しているそのものを感覚(感受)しているものなのです。すなわち、何はともあれ今あらわれているところでは、知識は感覚にほかなりません」と。これに対してソクラテスは、議論のとっかかりが出来たことに満足し、そのうえで、「それが正に純正なものか、それとも虚妄のものか、一緒によく見てみようではないか」と言う。こうしてソクラテスによる、テアイテトスを相手にした産婆術の実践、すなわち思想の出産へ向けての試みが始まるのである。

知識は感覚であるというテアイテトスの意見について、ソクラテスはそれが純正なものかそれとも虚妄のものか、一緒に考えていくわけであるが、結論から言えば、このテアイテトスの意見は反駁される。だがその反駁の仕方というのが、いかにも変わっているのである。ソクラテスは、テアイテトスの説を正面から反駁するのではなく、一応それを前提として認めたうえで、もしそうなら実際どういう事態がおこるのか、それをシミュレーションしてみせて、そこに不都合があることを指摘するという、迂回的なやり方をとるのである。これは「パイドン」においてとられた方法と同じものだ。すなわち、相手の言っていることを前提とすれば、その結果どういう不都合が起るのかを指摘することで、相手の言論の矛盾を突くというやり方である。

知識は感覚であるという主張は、プロタゴラスの主張に似ているとソクラテスは言う。そのうえでプロタゴラスの主張に潜む不都合をあばいていくわけである。そのプロタゴラスの主張とは、「あらゆるものの尺度であるのは人間だ。あるものについては、あるということの、あらぬものについては、あらぬということの」というものだった。なぜこのプロタゴラスの主張が「知識は感覚である」と同じ趣旨なのか、ソクラテスはそれを次のように説明する。「おのおののものが何らかの様子で僕に現われておるならば、そのものは僕にとってその様なものとしてあり、また君に何かの様子で現われておるならば、それはまた別に君にとってその様なものとしてあるというのではないか。そして人間というのは、この場合の君や僕がつまりそれだというのではないか」。つまりソクラテスは、物事があるそのあり方は、それぞれ個人ごとに違うのであり、その違いは個人ごとの感覚に対応していると言いたいようなのである。感覚は個人ごとに異なっているのであるから、というわけであろう。

プロタゴラスの主張は徹底した相対主義である、そうソクラテスは捉えている。それに対してソクラテス本来の立場は、いわば絶対的な真理を重んじる立場である。物事の本質は、あるものと別のものとの関係に左右されることに尽きるのではなく、どんな関係をも超越して、それ自体としての同一性を持ったものだ、というのがソクラテス本来の考えなのである。それは例のイデア説と深くかかわる考えなのであるが、この対話編ではイデア論が言及されることはない。

プロタゴラスの相対主義をソクラテスは、例を出して検討する。まず、風について。同じ風が吹いていても、ある者は寒気を感じるが、ある者は感じないというようなことがある。そういう場合について、吹いている風が、他と没交渉にそれ自体で冷たいとか、冷たくないとか主張したものだろうか。それともプロタゴラスの意見に従って、寒気を感じる者にとっては冷たくあるが、そうではない者にとっては冷たくないというべきか。答えは自明である。ところで、風が冷たいものとして現れるのは、人がそれを感覚しているのである。これは他のすべてのことがらについても妥当することなので、「従って、感覚には常に(感覚した通りに)あるところのものが対応するから、それは偽りなきものであって、その点知識そっくりなのである」

プロタゴラスのこの説が正しいとすると、ソクラテスにとっては面白くないことになる。「つまり、何ものも他と没交渉にそれ自体でそれ自体にとどまったまま単一であるというものはない」ということになるからだ。もしそうなら、何ものもそれ自体としてとどまる、つまり静止するということはなく、常に動いているということになる。「すなわち、すべての運動あるいは更に一般的な動きというものからなり、また相互の混和からなるというのである。そしてちょうどこれらすべてのものをわれわれはあると言っているけれども、これらに対してこの語を用いるのは正しくないというのだ。何故なら、何ものもいかなる時においてもあるということはないので、始終なるのだからというのである。そしてこのことについては、パルメニデスを除くすべての智者が相並んで同一歩調をとっているとみてよい。すなわちプロタゴラスとヘラクレイトスがそうであり、またエンペドクレスがそうである」。ソクラテスはそう言って、次にヘラクレイトスの説に言及していくのである。

ヘラクレイトスといえば、万物流転説を主張した哲学者として有名だ。万物を流と動との産物だと述べた。それに対して静は死を生みだす。「あると思われているものすなわち生成は、動がこれを供給するが、あらぬこと、亡くなることは静がこれを供給する」のだ。そういうわけだから、たとえば身体は、「これを静止させて使役せずにおくとだめになるけれども、これに体育をほどこして動かしておるならば、たいていの場合は保全される」のである。「従って、一方のものすなわち動は、精神の方からいっても身体の方からいっても、善きものであるが、他方のものはその反対ということになる」。これはすべての場合に当てはまることであって、動はよきもの、静はよからざるものなのである。

動の例としてソクラテスは、数の増減に言及する。数は、付け加えられたり引き去られたりすることがないかぎり、増大も減少もなく、常に同一のままである。また、別の例として、前にあらなかったものが後になってあるようになるには、なることやなりゆくことなしには不可能だ。いずれの例も、動がないかぎり物事に変化や生成は生じないということを言っているわけである。このことからもわかるように、万有は本来が動なのである。これはヘラクレイトスが強調していることである。

感覚にも動が働いている、とソクラテスは言う。感覚は、感覚をおこさせるものと、感覚として現れるものとに分けられるが、この二つが相互に働きあうことで感覚が成り立つ。たとえば視覚について言えば、これは目が物と出会うことによって生じる。「視覚の方は目から出るし、これに合わせてこの色を生むものからは白色が出て、その間互いに運動して、それで目は視覚の満たすところとなり、そしてその時実に見るのである。「目はその場合決して視覚となるのではなく、見ている目となるのである。また、これに合わせてこの色を生むものは、一面に白色で満たされて、これはまたこれで、白色というものになるのではなく、白くなるのである」。ここからあらためて言えることは、「何ものも他と没交渉にそれ自体で単一にあるものではなく、何かに対して常になりゆくものなのであるということ」である。

こういうソクラテスの言論をテアイテトスは多少いぶかしく感じるのだ。というのも、ソクラテスがプロタゴラスやヘラクレイトスとは全く反対の考えを持っていることを知っているからで、それなのに何故ソクラテスが、プロタゴラスやヘラクレイトスの主張を、あたかも自分の主張であるように語っているのか、いぶかしく感じるからだ。それに対してソクラテスは、自分の原則的な立場をあらためて強調する。そして次のように言うのだ。「おぼえていないな、君は! これらこうしたものの中で、何一つだって僕の知っていることはないんだってことを! 僕はこれらの不妊者なんだ。僕はただ君の産婆役をつとめているんだ」







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