テアイテトス読解その四

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プロタゴラスやヘラクレイトスの説を前提とすればどのような帰結が生まれるか、それをソクラテスはあらためて確認する。プロタゴラスによれば、あらゆるものの尺度は人間であるということになるが、その人間とは個々の人間をさすから、個人の数ほど真理があるということになる。あらゆる個人は、自分を尺度として世界を解釈するのであるから、個人ごとに真理の内容は違ってさしつかえないということになるからだ。一方、ヘラクレイトスによれば、あらゆるものは動のうちにあり、静はないのだから、あるということはなく、なりゆくということだけがある、ということになる。しかし、プロタゴラスとヘラクレイトスの説についてのこうした解釈が、知識は感覚であるという主張とどういうかかわりがあるのか。そこをソクラテスはあいまいにしたままのように聞こえる。

それはともかくソクラテスは、上のような考えによれば、個人ごとに真理が異なっているばかりか、個人そのものにおいても、真理が分裂する場合があることになるという。たとえば夢を見ている場合だ。夢を見ている人は、自分を神だと思ったり、あるいは翼が生えて空を飛んでいると思ったりするものだが、これは虚偽ではないと異論をたてることはなかなかむつかしい。何故なら感覚が知識であるならば、夢の中の感覚も同じなのであり、夢だからと言ってそれを虚偽だとはいえない。すくなくとも、プロタゴラスの言うことに従えばそうなる。「眠っている時間と覚めている時間を等しいものだとすると、これらのどちらにおいてもわれわれの精神は、それぞれの時に現在して、それと思われているところのものを何よりも本当だとして、あくまでもそれを通そうとするから、従ってわれわれは等しい時間を、一方ではこれをあるものだと主張し、他方ではかれをあるものだと主張して、しかもそのどちらを主張するにも同じような強硬さで押し通そうとしているということになるのだ」

この議論をきっかけにソクラテスは、プロタゴラス説の反駁にとりかかるのだ。プロタゴラスは、「それぞれの時に思われていることをもって、そう思われている者にとっての真なのであると定めている」のであるが、もしそうならどういうことが生じるか。プロタゴラスに従えば、僕の感覚というものは僕にとっては真である。それはいつでも僕にとっての有を感じさせるものなのだから。ということは、プロタゴラスは智者であり、他のものから師として尊敬され、かつ多額の謝礼金までもらう理由がなくなる。何故なら、何が真であるかについては、プロタゴラスと他の者との間に真の判定についての優劣はないということになり、従ってプロタゴラスは他の者より真を理解しているとはいえないからだ。その点では、人間にかぎらず豚や狒々でも、それなりの真を理解しているというべきである。そんなわけだからプロタゴラスは「真理論」のはじめに、万物の尺度として豚とか狒々をあげてもよかったのである。そういってソクラテスはプロタゴラスを嘲笑してみせるのである。

ソクラテスがプロタゴラスを嘲笑するので、テオドロスは狼狽する。というのもテオドロスはプロタゴラスの友人として、ソクラテスによるプロタゴラスの嘲笑が自分の同意を得てなされたように思われるのが忍びないというのだ。そんなわけだから、自分をあなたの議論にまきこまず、ただの見物人の立場に置いたままにしてもらいたい、と注文をつけるのである。

そこでソクラテスはテオドロスを無罪放免にして、テアイテトスを相手に議論を続ける。以上のことがあてはまるとすれば、テアイテトスについても「知にかけては人間の誰かれはおろか、神々のうちの何神に比べてもすこしもおとらことのない者だということに」なるが、君はそれを奇妙には思わないかね、と冷やかしたような言い方をする。テアイテトスは無論、自分をそのような智者だとは思っていないから、ソクラテスの冷やかしにはめっそうもないといった答え方をするのだ。

これで一応当面の敵手プロタゴラスを反駁したつもりになったのだろう。ソクラテスは議論を本筋に戻す。つまり「知識と感覚とは果たして同じものであろうか、それとも異なったものであろうか」ということについて、議論を深めようというのだ。

ソクラテスはまず、感覚のうちの視覚をとりあげて、それの知識との関係について議論する。前提として、「およそ何かを見た者は・・・そのものの識者(知識する者)となる」ことを確認する。その上で、視覚の記憶を問題にする。記憶においてはかつての視覚が再現されるのであるが、実際に見ているわけではない。これは目をつぶりながら記憶を呼び覚ます場合を考えればよくわかる。目を閉じているのだから、その人は何かを実際に見ているわけではない。つまり実際に視覚しているわけではない。ということは、そのものを知識しているわけではないということだ。何故なら知識とはこの場合視覚のことなのだから、その視覚を実際にしていない場合にそれを知識しているとはいえないからだ。そうソクラテスは言ったうえで、もしそうなら、「人が何かを知っているとして、その同じ人が、その知っている当のものを、知っていて知らない」という不都合なことになる、と主張する。この主張にはかなり無理なところがあって、アクロバット的なのであるが、ともかくソクラテスの議論は続いて行く。

もっとも、すぐ後に続く議論もアクロバット的である。片手で片目を閉ざされた状態で、何かを見るとする。すると片目ではそのものを見て、もう一方の目では見ていないことになる。ということは、同じものを同時に、見て見ないという状態が生じるということだ。これは矛盾であるが、その矛盾は感覚つまり視覚が知識であるという前提から生じる。こうソクラテスは言うのだが、これもまたかなり無理筋の議論と言わねばならぬだろう。

こんな無理筋の議論でも、相手が少年のテアイテトスのこと、たいした反駁も受けないでソクラテスは、自由自在に屁理屈をこねまわすといった風情である。ソクラテスは、議論をするなかで、相手に反駁することで議論を深めるのが得意なのだが、自分が反駁されることはあまりない。だからソクラテスの議論は時として脱線気味となるきらいがある。それを意識してかどうか、ソクラテスは議論の相手をテオドロスに切り替えて、もうすこしまともな議論をしたいと思ったのだろう、いやがるテオドロスを強引に議論に引っ張り込むのだ。そんなソクラテスをテオドロスは次のように言って皮肉る。「あなたの演じておられる役割といえば、それはむしろ何かアンタイオスの流儀だと私には思われる。近づいて来る者は誰でもかまわず、いや応なしに、着物を脱がせて言論上のすもうの相手をさせ、これをしないうちは放さないというわけなんですからねえ」

これに対してソクラテスは、「何か児戯に類するような言論をしていながら、ひょっとして、それに気づかないようなことがあって、その点をまた誰かに非難されるようなことがあってはならぬのです」と言って、有意義な議論に参加するようテオドロスに呼びかけるのである。






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