ドゥルーズのスピノザ論

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ジル・ドゥルーズは、スピノザに特別な愛着をもっているようだ。その愛着ぶりがどこから来ているかと言えば、それはスピノザがエピクロスやニーチェと同じ系譜の思想家だという認識からだろう。ドゥルーズ自身も、エピクロスやニーチェに親縁性をもつというふうに自己認識しているようで、その自己認識がスピノザへの愛着につながっているのだと思う。エピクロスとニーチェに共通するのは、快楽について肯定的であること、神を信じない、あるいは軽視すること、既存の道徳に否定的な態度をとることなのだが、そういう特徴をドゥルーズはスピノザにも見るのだ。

実際スピノザはこうした傾向、なかでも無神論的な傾向が原因で、オランダのユダヤ人コミュニティからも、キリスト教社会からも迫害されたのである。そういう人々とスピノザは戦ったわけだが、その戦いは、ドゥルーズの言葉でいえば、「生を憎悪する人間、生を恥じている人間、死の礼賛をはびこらせている自己破壊的な人間」(「スピノザ」鈴木雅大訳、以下同じ)たちとの戦いであった。この言葉はそっくりニーチェにもあてはまる。ニーチェはその孤独で激越な戦いに疲れたかのように狂い死にしたのだったが、スピノザもまた孤独な死をとげねばならなかった。スピノザが死んだのは1677年のことで、ニーチェの死よりも二百年以上も前のことであった。

このようにスピノザをニーチェと関連付けて評価するというのがドゥルーズの特徴である。従来の哲学史の定式においては、スピノザをニーチェと関連付ける見方はほとんど存在しなかった。長らく忘却の淵に沈んでいたスピノザを、哲学史の王道に据えたのはドイツの観念論者たちだったのだが、かれらはスピノザを自分たちの先駆者と位置付けた。スピノザの神は、ドイツ観念論者が好きな、精神的な原理、それはヘーゲルの絶対精神において頂点を迎えるわけだが、そうした精神的な原理として解釈したのだった。この解釈が大きな影響力を発揮したおかげで、スピノザはドイツ観念論の先駆者とされたのである。ドイツ観念論は、ニーチェが攻撃したものである。そのニーチェの先駆者としてスピノザを位置付けたわけだから、ドゥルーズは哲学史の定式を根本的に覆したことになる。

ドゥルーズはスピノザを三つの点から特徴づける。唯物論、反道徳、無神論である。唯物論は意識に対する評価の切り下げと連動していた。反道徳は一切の価値、とりわけ善悪に対する評価の切り下げと連動していた。そして無神論は一切の悲しみの受動的感情に対する評価の切り下げと連動していた。これら三つの傾向は、ニーチェにも指摘できるものである。

まず、意識の切り下げとしての唯物論。デカルトが意識を明証性の根拠にして以来、意識は哲学が展開するためのフィールドとなってきた。意識を離れては何事も議論できなかった。その意識は身体とは厳しく区別された。意識と身体とは全く異なった二つの実体であり、基本的には別の原理にしたがって働くとされた。その場合に身体は意識よりも一段と格の低いものとして扱われた。意識と身体とが交わることもあるが、その場合には意識の働きが身体を支配するものと観念された。そういう考え方に対してスピノザは疑念を呈する。意識と身体とは全く異なった原理で働くものではなく、逆に同調しあうものである。また心身両系列の間には一方に対するいかなる優越も存在しない。更に、「無意識というものが、身体のもつ未知の部分と同じくらい深い思惟のもつ無意識の部分が、ここに発見されるのである」

意識と身体との同調とならんで、意識の物質的基礎も強調される。物質的なものは身体に働きかけ、その結果身体に生じた変化が意識に作用する、という形で意識の評価の切り下げと、意識の唯物論的な性格が明らかにされる。意識の働きは物質的な原因を持っている限りで、必然的なものなのである。それを自由な働きと思うのは錯覚だ、とスピノザは言う。「意識は、分かちがたくそうした合目的性の錯覚、自由の錯覚、神学的錯覚という三重の錯覚と結びつき、その錯覚のうえに成り立っている」のである。

ついで、一切の価値、とりわけ善悪に対する評価の切り下げとしての反道徳主義。道徳は善悪の評価に根差しているが、善悪の評価とは何か。我々は普通、あるものがそれ自体として善であるから、我々にとって良い結果をもたらすと考えがちだ。しかしよく考えてみれば、事態はその逆で、我々によい結果をもたらすものを、我々は善と名づけているに過ぎない。悪についても同様で、我々は自分にとって好ましくない事態をもたらすものを悪というべきなのであって、絶対的な悪がまずあって、それが我々に悪い結果をもたらすと考えるのは錯覚なのだ、とスピノザは言うのである。

「かくて<エチカ>(生態の倫理)が<モラル>(道徳)にとって代わる。道徳的思考がつねに超越的な価値に照らして生のありようをとらえるのに対して、これはどこまでも内在的に生それ自体のありように即し、それをタイプとしてとらえる類型理解の方法である。道徳とは神の裁きであり、<審判>の体制に他ならないが、<エチカ>はこの審判の体制そのものをひっくり返してしまう」

更に、一切の悲しみの受動的感情に対する評価の切り下げとしての無神論。スピノザが悲しみの受動的感情に否定的なのは、それが生への積極的な意思を疎外するからである。宗教はそうした生の疎外の上に成り立っている。したがってスピノザは、「その全著作をつうじて、たえず三種類の人物を告発しつづけている。悲しみの感情にとらえられた人間、この悲しみの受動的感情を利用し、それを自己の権力基盤としている人間、そして最後に、人間の条件や人間のそうした煩悩としての受動的感情一般を悲しむ人間」。そうした人間たちが、奴隷と暴君と聖職者という三位一体を生みだす。かれらを結びつけているのは、生に対する憎しみ、生に対する怨恨の念なのである。

そうした認識に立ってスピノザは、受動的な感情としての悲しみに敵対し、積極的な感情としての喜びを謳歌するわけだが、その謳歌は、悲しみの感情に基礎を置いた宗教的な世界観への軽蔑と結びつく。かくてスピノザは無神論者として振る舞うのである。スピノザの言う神とは、無神論者の神なのである。逆説的な言い方になるが、そういうよりほかはないほど、スピノザの無神論は徹底している。それがスピノザについてのドゥルーズの理解である。





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