大江健三郎の世界

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大江健三郎は、小説を書くために生れて来たといってよい。学生時代に早くも芥川賞をとり(飼育)、最後の長編小説(晩年様式集)を書いたのは78歳の時だった。そんな年で長編小説を書いた作家は、世界の歴史でも稀有である。ゲーテが「ファウスト」を完成させたのは死の前年81歳の時だが、ゲーテをそこまで駆り立てたのは旺盛な性欲だった。それに対して大江を老年に至るまで創作に駆り立てたのは、社会に対してのコミットメント意識だったように思われる。彼にとって生きることは書くことであり、書くこととは社会にコミットすることだったのである。

そうしたコミットメント意識を大江は、同時代の知識人から学んだようだ。特にサルトルからは大きな影響を受けたようである。彼の初期の短編小説には、サルトルの強い影響が指摘できる。それとともに、少年時代の体験も大きな働きをしている。彼は十歳の時に敗戦を迎えたのだが、それを境にして大人たちの振る舞いが激変したことを目撃し、社会の成り立ちに深い関心を持つようになった。それが若い大江に鋭い批判意識をもたせ、その批判意識が大江の初期の短編小説群を彩るようになったといえる。

大江の社会への批判意識は、多分に反権力的なものだが、そうした姿勢は大江の子供時代の体験にも根差しているようである。大江の父親は、紙幣の材料となる楮の樹皮を大蔵省に納入する仕事を家業としていたが、その仕事をめぐって、権力を持った連中から父親が横柄な扱いを受けている場面を、少年大江は目撃して、反権力意識を駆り立てられたようなのである。その場面は大江の小説に繰り返し出て来るから、大江はよほど権力への意趣を抱いていたといってよい。

大江はそうした反権力意識を生涯持ち続けたといってよい。その姿勢のために、一部の日本人からは目の敵にされた。日本の文学者のなかで大江ほど、政治的な攻撃の標的にされたものはいない。大江はそうした攻撃に屈することはなかった。かれは晩年、ノーベル賞をとった直後から、全世界の同時代の知識人との間で往復書簡を取り交わしたが(暴力に逆らって書く)、それらの知識人たちも旺盛な批判意識と反権力感情を共有していた。大江は友を選ぶにも、自分と似たような背景を持つ人物が好きだったのである。

政治的な攻撃ということでは、大江は自分の作品をめぐって右翼から脅かされたり、また裁判所に引きずり出されたりもした。自分の作品が受難をもたらしたわけで、その点では、思想信条に準じた多くの先輩作家の轍を踏んだといってよい。日本では、たとえば山東京伝や成島柳北のように、言論が災いして弾圧された事例にはこと欠かない。それはもの書く人間にとって、ある種の勲章のようなものだ。大江にはそうした勲章が似合う。

大江の執筆活動は非常に長期間にわたるので、いくつかの転換を指摘できる。学生時代に始まる初期の短編小説群、「個人的な体験」を転機とする中期の長編小説群、そして大江自身がレイトワークと呼んでいる晩年の作品群といった具合に分類できよう。初期の短編小説群では、暴力、セックス、政治といったテーマが前面に出ている。そうしたテーマが、サルトルの短編小説に通底するような実存主義的な問題意識を以て書かれている。

中期の長編小説群は、大きく分けて二つの系譜からなる。一つは「個人的な体験」に始まるもので、障害を持って生まれた長男との共生を主なテーマとするもの。この系譜の作品としては、「洪水は我が魂に及び」や「ピンチランナー調書」があげられる。もう一つは「万延元年のフットボール」に始まる一連の作品。これらの作品で大江は、自分の故郷である四国の山の中を舞台にして、そこに伝わる百姓一揆の伝説を材料にして、日本の庶民の歴史を壮大な規模で描き続けた。その描き方には、想像力の奔放さがあふれ、そういう点では、「個人的な体験」にこだわった先の作品群とは鮮やかな対象をなしている。この系譜の作品としては、「同時代ゲーム」、「M/Tと森のフシギの物語」、「懐かしい年への手紙」があげられる。ノーベル賞受賞に前後した時期の作品「燃え上がる緑の木」三部作は、大江の中期の作品群の総括的な仕事と言えよう。

これらの作品群で、大江の最高傑作といえるのは「同時代ゲーム」ではないか。この作品には、暴力、セックス、政治といった大江の初期からのこだわりが網羅的に盛り込まれており、しかも宇宙的な壮大さと想像力に富んだ語り口によって情緒豊かな感情を読者の心に引き起こしてくれる。

晩年の作品群の執筆は、大江が一旦断筆宣言をしたあとに再開されるのだが、再開第一号の「宙返り」の次に「取り替え子」を執筆する。これが大江自らレイトワークと呼ぶ作品群の筆頭に位置付けられるのではないか。これは少年時代からの友人で、妻の兄であった伊丹十三の、謎多き死に触発されて書いた作品で、引き続く「憂い顔の童子」、「さようなら、私の本よ!」と並んで、大江自身「おかしな二人組」三部作と呼んでいる。三部作というとおり、これらの小説は互いに深い関連を持たされるようになっており、後作が前作を引用するケースがいたるところにある。大江にはもともと、自分の家族をテーマにしているところから、自己引用的なところがあるのだが、レイトワークにはその自己引用が極端な形で現われている。大江はそれらの自己引用を通じて、自分の作品世界全体を、共通の紐で結び合わせようとしているかのようである。あるいはバルザックやエミール・ゾラが実験的に行っていたやり方を、意識的に後追いしているようにも思える。それは大江なりの「人間喜劇」の体系と言ってよいかもしれない。

大江の文章は非常に読みづらいという意見がある。とくに「同時代ゲーム」を書いた中期の作品群に顕著なことだが、大江はそうした読みづらさを意識的に追及しているようである。大江は作品を何度も書き直して推敲するというが、その推敲のたびに意識的に文章を読みづらくしているようなのだ。大江にとって文学的な文章とは想像力を駆り立てるような文章でなくてはならず、そういう文章はすらすらと読めるものであってはならない。一旦立ち止まらせて、考えさせるような文章でなければならない、それは読者に突っかかるような文章になるはずだ、という信念が大江にはあって、それが読みづらい文章を生みだしているのではないか。

大江の社会へのコミットメントということを言ったが、そうしたコミットメントは小説より時評とか論文のなかでより露骨にあらわれる。大江の同時代批判の文章としては、「ヒロシマノート」と「沖縄ノート」が代表的なものだが、それらの文章を通じて大江は、この国の形について厳しい指摘を投げかけている。その指摘があまりにも強烈なために、それ相応の反発も受けた。「沖縄ノート」をめぐっては、沖縄戦の軍人遺族から名誉棄損で訴えられたし、また浅沼事件をテーマとした小説(政治少年死す)がもとで、右翼から狙われたこともある。大江がそれらに屈しなかったことは、前述したとおりである。ともあれ大江は、作家としても異常といえるほど多くの同時代批判の文章を書いている。

大江は、自分の家族をたびたび小説の材料に使っていることをもとに「私小説作家」だと言われていることに反発している。たしかに実在の家族を材料にしているところは、私小説に似ているかもしれないが、自分の場合には、家族を登場させるのはある種の方便としてであって、その描き方は私小説のそれとはまったく異なる。私小説にはフィクションの要素はほとんどないが、自分が描く家族の姿は、全くフィクションといってよい。そう大江は言うのだが、全くのフィクションであれば、実在の人物を登場させることもないだろうという批判はありうるかもしれない。

実在の人物ということでは、大江は同時代の作家や知識人たちを小説の中でたびたび登場させている。そのさせ方は、たとえば石原慎太郎を「あしはら」と読みかえたり、多分に侮蔑を感じさせるものだが、そのほかに、大江が偉大と感じる作家たちを、小説のなかに登場させて、その作品論を展開したりしている。小説の一部が作家論になっているわけだ。このように、作家論を小説のなかに繰り入れるようなやり方は、しかもそれを飽くことなく繰り返すのは、大江以外には見当たらないのではないか。作家にはやたらと議論好きな人がいるが、大江ほど小説のなかで議論を弄するのを好むのは珍しいと言えよう。

大江健三郎最晩年の小説「水死」は、大江の分身である小説の語り手の父親の謎の死をテーマにしたものだ。大江には、父親の謎の死というテーマを扱ういくつかの作品群があるのだが、それらの作品は、天皇制についての大江の受け止め方を、父親に投影して書いているところがある。大江は別の小説の中で、自分をドンキホーテに譬え、ドンキホーテの資格において、見えない敵と戦わせているのだが、父親を通して戦っている敵は、天皇制に象徴されるこの国のおどろおどろしい権力だと言いたいようである。大江のそうした反権力意識は、「洪水は我が魂に及び」に顕著に見られる。また、初期の傑作「芽むしり仔撃ち」でも疑似権力の横暴が描かれていた。してみれば大江健三郎という作家は、生涯反権力の意思を持ち続けたということなのだろう。






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