第一次世界大戦終了後、ヴェルサイユ条約によって、敗戦国の処分についての大枠が決められ、オスマン・トルコは領土(支配地域)の大半を奪われることとなった。すなわちアラブ人地域の大部分が、サイクス・ピコ密約にしたがって、英仏の間で分割されることとなったのである。その割り当てを具体的に決めたのが1920年4月のサンレモ会議であった。この会議の結果、シリアとレバノンの地域がフランスに、トランスヨルダンを含むパレスチナとイラクの地域がイギリスに割り当てられた。これは、統一した独立国家を夢見ていたアラブ人を裏切るものであり、また、アラブ世界の中に人工的な国境線を引くものだった。それまで、アラブ地域では、部族による分断はあったものの、国境という概念はなかった。そこに英仏が、恣意的な形で、つまり自分たちの都合に合わせて、人工的な国境を引いたわけである。
前稿で述べたように、大戦終了後シリアにはフサインの息子ファイサルがシリア・アラブ王国を作っていたが、わずか一年にして、フランスによって転覆させられた。また、イラクには、三つの勢力が混在していた。北部にはクルド人、中部にはスンニー派アラブ人、南部にはシーア派アラブ人である。この水と油のような勢力が、人為的に引かれた国境線内に共存することとなったのである。この人為的な国境線によってもっとも大きな影響を受けたのはクルド人だった。クルド人は、アナトリア南部、シリア北部、イラク北部にまたがって住んでいたのだったが、自分たちの住んでいる土地を恣意的に分割されたうえに、自前の国を持つ可能性をはく奪されたのである。
英仏によるアラブ世界の分割は、帝国主義的な植民地主義といってよかったが、かつてのような露骨な植民地主義はなかなか通らない時代になっていた。ウィルソンの提唱した民族自決の原則が、国際関係の新たな原則となりつつあった。そんなこともあって、英仏両国は、自分たちの植民地主義を新たにできた国際機関である国際連盟によって正当化しようとした。委任統治という制度がそれである。これは国家として成熟していない国について、国連がその統治を、他の強国に委任するというものだった。それによって英仏は、自分たちによるアラブ支配にお墨付きを得ようとしたわけだが、実質的には、従来の帝国主義的な植民地主義と異なるところはなかった。
フランスは、レバノンとシリアについて直接統治をおこなったが、イギリスは、フセイン・マクマホン協定をまったく無視するわけにもいかず、一定の譲歩をせざるをえなかった。イギリスの統治下にある地域を、ムハンマドの末裔であるハシーム家に与えたのである。長男のアリーにはヒジャーズ(アラビア半島西部)、次男のアブドゥッラーにはトランスヨルダン、シリアを追われた三男のファイサルにはイラクを、それぞれかれらの王国として与えたのである。これにともない、従来は一体だったパレスチナとトランスヨルダンが分断され、パレスチナだけに委任統治が適用されるようになった。以上の分割策は、当時のイギリス植民地相チャーチルがたてたものである。
かくしてトランスヨルダンから分割されたパレスチナの地を、イギリスは「バルフォア宣言」の精神を尊重しながら統治することとした、つまり将来パレスチナの土地をユダヤ人によって統治させるという方向性にもとづく統治をおこなったといえる。それゆえ、パレスチナへのユダヤ人の移民を計画的に推し進めた。その政策を担当したのは、イギリスのユダヤ系シオニスト、サミュエルだった。イギリスはユダヤ人にパレスチナの未来をゆだねたともいえる。そのようにさせたのは、イギリス人得意の分割統治の知恵だった。アラブ人のナショナリズムをユダヤ人によってけん制させようとしたわけである。
こうしやイギリスのやり方や、ユダヤ人の移入に対して、当然のことながらアラブ人側の反発が広がった。そうした反発は、大規模な暴動となった爆発した。その最初のものは、1920年のナビー・ムーサー事件で、これはアラブ人の祭を妨害したユダヤ人に対する怒りが、パレスチナ全域に暴動として広がっていったものだった。その後、1921年、1929年、1933年と、くりかえし暴動が起きた。
イギリスとしては、アラブ人とユダヤ人が対立を深めるあまりに、パレスチナの統治がマヒすることは望んでいなかったわけで、両者を融和させながら、統治に協力させようとする努力は続けた。そのために、両者の代表がともに参加する立法評議会を作ろうともした。しかしアラブ人側は、委任統治の枠組みそのものを認めない立場で、イギリスへの協力を一切拒んだ。一方、ユダヤ人側は、自分たちの代表としてユダヤ機関を結成し、それを通じてイギリス側と交渉する体制をとった。かれらの狙いはいうまでもなく、「バルフォア宣言」の完全実施、すなわちパレスチナにユダヤ人国家を早期につくることであった。
ユダヤ人社会内部には色々な政治的潮流があって、かならずしも一枚岩ではなかった。主流は、ヘルツル率いる実践シオニストで、これをベングリオンの建国路線が引き継いだ。ベングリオンは労働党マバイの指導者で、やがてイスラエル建国の指導者として初代イスラエル首相となる。
これに対して、修正派シオニストと呼ばれる勢力があった。ジャボチンスキーが中心となって、トランスヨルダンを含めた大パレスチナにユダヤ人国家を建設しようと主張し、またパレスチナからのアラブ人の追放を叫んだ。この勢力は、自ら武装して、さまざまなテロを行った。ベギンのイルグンやシャミールのシュテルンなどはそうしたテロ組織の代表的なものであり、それらが合同して後のリクードにつながっていくのである。現在リクードはネタニヤフが率いているが、かれの拡大主義的傾向や反アラブ主義は、以上のような修正派シオニストを受け継いでいるわけである。
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