第二次世界大戦とパレスチナ分割案:イスラエルとパレスチナ

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1933年にナチスが政権を取り、ユダヤ人への迫害が強まると、多くのユダヤ人が身の危険を避けてパレスチナへ逃げてきた。ナチスは当初、ユダヤ人をパレスチナに送ることに協力したので、ユダヤ人は怒涛のような勢いでパレスチナへやってきたのだ。1930年代なかばの数年間で、5万人以上のユダヤ人がパレスチナに移住したとされる。その多くは裕福なユダヤ人たちだった。イスラエル国家にとっての原始的蓄積にあたるものを、この裕福なユダヤ人たちの財産が提供したといえる。

それに対してアラブ人側は強く反発した。ユダヤ移民がピークに達した1936年の4月には、アラブ人による大規模な反乱が発生して、1939年ごろまでに断続的に続いた。この事態に手を焼いたイギリスは、パレスチナをユダヤ人の国家とアラブ人の国家に分けるパレスチナ分割案を提示するに至った。「ビール勧告」と呼ばれるものである。これは、パレスチナの土地のうち、一部をさいてユダヤ人国家とし、残りの部分はトランスヨルダンと合併させ、またイスラエルは引き続き委任統治を続けようという内容であった。

これに対しては、ユダヤ人国家に指定された地に住むアラブ人を中心にして更なる反乱がおこった。イギリスはそれを徹底的に弾圧した。その弾圧には、ユダヤ人の武装組織ハガナも協力した。そのハガナが、イスラエル建国後に国防軍へと発展してゆくのである。この弾圧でアラブ人側は大きな損失を蒙り、アラブ人を代表するような体制を作ることができなくなった。パレスチナのアラブ人を代表していたハーッジ・アミーンもイラクへの亡命を余儀なくされたのである。このアミーンは、イギリスに対抗するためにナチスに接近し、そのことで戦後、パレスチナ・アラブ人の立場を余計に危うくしたといわれている。

イギリスはアラブ人に憎まれただけではない、ユダヤ人からも憎まれた。とくに1939年5月に、いわゆる「パレスチナ白書」を公表して、ユダヤ人のパレスチナへの移民を制限し、また従来のユダヤ国家構想を否定して、アラブ人が主体の単一のパレスチナ国家を樹立すると宣言したために、ユダヤ人の怒りは頂点に達した。これは「バルフォア宣言」の撤回というべきものであり、ユダヤ人の希望を打ち砕くものだった。ユダヤ人は国家建設の希望を打ち砕かれただけではない。パレスチナへの移民を制限されたことで、ドイツはじめヨーロッパに住んでいたユダヤ人は、行き場を失った形になったのである。アメリカもユダヤ人の移民を制限していたので、膨大な数のユダヤ人が、ヨーロッパに取り残されて、ホロコーストの餌食にされていった。

1939年9月にナチスがポーランドに侵入し、第二次世界大戦が勃発すると、イギリスのパレスチナ政策には大きな転換があらわれた。イギリスは戦争遂行上、アラブとの良好な関係を優先させるようになったのだ。イギリスは、ドイツ相手のヨーロッパ戦線と日本相手の東アジア戦線との、両面作戦を強いられていた。そういう状態にあって、輸送上の死活を制するスエズ運河を安定的に運営するためには、アラブとの友好関係が重要だった。そんな思惑が、ユダヤ人への配慮をしのいだのである。

大戦に先立ちイギリスは、パレスチナのアラブ代表のほかアラブ諸国の代表及びユダヤ人の代表をロンドンに呼んで、イギリスのパレスチナ政策を、個別に説明していた。ユダヤ側とアラブ側がテーブルをともにできるような雰囲気ではなかったからである。これは一応「ロンドン円卓会議」と呼ばれているが、関係者一同が揃って円卓を囲んだわけではなかったのである。

この会議の席上、イギリスはパレスチナ分割案を撤回して、新たな政策を提示した。それは、単一のパレスチナ国家を樹立する、ユダヤ人移民を制限し、今後五年間の受け入れ人数を7万5千人とする、パレスチナでのユダヤ人による土地購入に制限を加える、というものだった。これには、ユダヤ人側は大きな反発をしたが、アラブ側もすんなりとは受け入れなかった。かれらは、いまいるユダヤ人でさえ目障りなのに、これ以上ユダヤ人の移民を受け入れることは拒否したのだ。なお、この会議の持った意義は別の所にあるといわれている。この会議は、パレスチナにとどまらずアラブ諸国家をまきこんだ形で行われたのであったが、そのことでユダヤ対全アラブという構図が、表面化したというのである。ともあれ、この会議でイギリスが示した方針が、その後、「パレスチナ白書」を経て、大戦期のイギリスのパレスチナ政策に反映していったわけである。

イギリスに裏切られた形のユダヤ人は、反英意識を高めた。しかしイギリスにとっては、ユダヤ人に多少憎まれてもあまりこたえなかった。ユダヤ人がナチスに寝返る可能性は全くないといってよかったので、深刻な敵になるとは考えていなかったからだ。ユダヤ人内部も一枚岩ではなかった。ベングリオンらの主流派は、イギリスとの決定的な対立を望まなかった一方、イルグン団とかシュテルン団ら修正主義シオニストたちは、イギリスへの武装闘争を主張した。1940年代に入って、ナチスによるユダヤ人のホロコーストの実情が知られるようになると、修正派シオニストは、ユダヤ移民の無制限の受け入れを主張して対英武装闘争を展開した。その中で、イギリスの植民地大臣ギネス卿(ギネス・ビールとギネス・ブックで知られる)がシュテルン団によって暗殺される事態もおこった。

この時期におけるユダヤ人内部の対立は、イスラエル建国後の党派間対立につながっていく。建国後はベングリオンが初代首相になるなど、主流派のシオニスト(実践シオニズムとか労働シオニズムとか呼ばれる)が労働党マパスに結集して、イスラエルの国家権力を当分は担った。それに対して修正主義シオニストは長らく野党の立場にあったが、1977年にラビンが首相となることで、飛躍的に勢力をのばした。この修正主義シオニズムが、今日のリクードにつながるのである。修正主義シオニズムの基本的な主張は、別稿でも触れたように、トランスヨルダンを含めた大パレスチナにユダヤ人国家を作ること、その大パレスチナ国家からアラブ人を追放することである。ネタニアフはそうした野心を隠そうとはしない。






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