楽園:瀬々敬久

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瀬々敬久は「菊とギロチン」で権力に立ち向かう個人を描いたわけだが、2019年の映画「楽園」では、伝統的な権力たる村落共同体によって、異質な個人が圧殺されるところを描く。そういう圧殺を、かつては村八分と呼んだものだ。社会の流動化が進んだ現代においては、村八分はほとんどありえないもののようにも思えるが、ある特定な条件のもとでは、容赦なく人を圧殺する、ということがこの映画からは伝わって来る。いずれにしても愉快な現象ではない。

圧殺される人物は二人。一人は軽い言語障害がある青年、一人は孤独な養蜂家である。青年のほうは映画の前半の主人公で、村落共同体から浮き上がった存在だ。そのためかれは村人からなにかと白い目で見られている。ある種の村八分だ。その挙句に幼女行方不明事件の容疑者として嫌疑をかけられる。かれにはその嫌疑をはらす能力もなく、逃げ出す器量もない。その挙句に、自分の置かれた状況に絶望して、ガソリンをかぶり、焼身自殺してしまうのだ。

孤独な養蜂家は、後半の主人公。当初は村人と友好関係にあったが、村の産業振興をめぐり、村の長老達から憎まれるようになる。かれもやはり自分を守るのが苦手で、自虐的に振る舞うことしかできない。感情にまかせて長老たちを殺害し、自分で自分に鎌を振るって割腹自殺をしてしまうのだ。

前半の青年には高校生の少女がからむ。この少女は12年前に起きた幼女誘拐事件のさいに、最後までその幼女と一緒だった友だちということになっている。彼女は、もしかして自分にも責任があったのではないかと悩んでいる。その悩みにつけいるように、なぜおまえだけ生き残ったのだと責める大人もいる。

後半の養蜂家には、夫を失い長男と共に暮らしている中年女性がからむ。この女性は養蜂家が好きになるのだが、養蜂家が陥った危機を前になすすべをもたない。養蜂家が感情爆発して自滅していくのを、ただおろおろと見ているほかないのだ。

こんな具合に、かなり陰湿なストーリー設定の映画である。伝統的な村落共同体は、そこに生きる人にとって、ある意味楽園と言ってよいはずなのだが、実際にはこの世の楽園ではなく、この世の地獄だったというのが、この映画の基本的なメッセージである。そのような地獄は、現代日本の至る所に存在しておかしくはない。そう言っているかのように聞こえて来る。

前半の青年を綾野剛が演じている。この俳優は、名前に似合わず優柔なところがあって、「そこのみにて光り輝く」や「怒り」といった映画で、独特な雰囲気を披露していたものだが、それがこの映画でも生かされている。後半の養蜂家を演じた佐藤浩市は、円熟したところを見せてくれる。






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