金剛般若経を読むその三:甚深あるいは即非の論理について

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第十節から第十六節にかけては、金剛般若経のもたらす福徳について説く。その際に使われるロジックが独特のもので、これを甚深と言ったり、即非の論理と言ったりする。甚深とは、この経の中で用いられている言葉で、第十四節に出て来る。即非の論理は鈴木大拙が使った言葉で、通常の論理とは異なった金剛般若経独自の論理をさした言葉である。

まず第十節。ここでは、釈迦が前世において然灯仏から仏陀になるべき予言を受けたことに触れたのち、菩薩が仏土を荘厳することはないといい、その理由として、仏土を荘厳するとはすなわち荘厳にはあらず、それゆえ荘厳というのだ、という奇妙とも思える理屈が述べられる。これは、先に甚深とか即非の論理とかいったものの、典型的な見本である。この理屈を式の形で言い換えると、Aは非AであるゆえにAである、ということになる。通常の形式論理からいえば、矛盾律を無視した荒唐無稽な理屈ということになるが、金剛般若経はあえてその理屈で押し通すのである。その理由は、推し量るほかないが、要するに真実は形式論理によっては与えられない。形式論理は分別の賜物だが、人間が分別によってとらえるのは虚妄に過ぎないという思想が背景で働いているのである。つまり空の思想である。その空の思想が、即非の論理を押し出すわけである。

形式論理の特徴は形にこだわることだと金剛般若経は説く。しかし真実を見極めるためには形にとらわれてはならない。また声香味蝕法にとらわれてもいけない。なにごとについてもとらわれのない心で接するべしというのが、この経の説くところである。

第十一節は、この経のもたらす福徳について説く。以前の節でも説かれていたところだが、この広大な世界を七宝で以て布施する功徳よりも、この経のうちの四句の偈を受持して他人のために説くほうがはるかにすぐれた功徳になると説く。第十二節も同様で、この経のあるところには、仏がいるものと信じるべきであると説く。

第十三節は、その経を名づけて金剛般若波羅蜜となすと説く。そして仏陀が般若波羅蜜を説くのは、般若波羅蜜でないからだと、ここでも即非の論理が現れる。般若波羅蜜は仏陀の説くところだが、その仏陀には説くべきようなことはないと、またもや奇妙と思える言い方が出て来る。金剛般若波羅蜜は仏陀の説くところだが、その仏陀には説くべきことはないというのだから、これは形式論理からすれば、奇妙な理屈なのである。だが即非の論理からすれば、奇妙でもなんでもないということになる。

続いて、微塵は微塵にあらず、それを微塵となすとか、世界は世界にあらず、それを世界と名づくとか、同じような即非の論理が繰り返される。

このような独自の論理にもとづく般若波羅蜜について、「仏はかくの如き甚深の経典を説きたもう」と第十四節で説かれる。この経を聞いて、信心清浄であれば、その者は真実を知ることができる。その際に、真実だという思いは、真実でないという思いだと知るべきとされる。ここでもやはり即非の論理が貫徹しているのである。

第十四節は続けて、一切の思いから離れている者を諸仏という。一切の思いとは、ものごとについてのこだわりのことであろう。そうした諸々のこだわりから自由であることが、悟りにとっての不可欠の条件なのである。

般若波羅蜜は第一波羅蜜という。その第一波羅蜜は第一波羅蜜にはあらず、それを第一波羅蜜という。忍辱波羅蜜以下の諸波羅蜜も、それぞれ波羅蜜で非ざるゆえに波羅蜜なのである。肝心なことは、なにごとにもこだわらぬことである。波羅蜜もそれを波羅蜜としてこだわると、波羅蜜でなくなる。だからこだわりのない心で、波羅蜜を実践すべきだということになる。

物事に執着することを、ここでは「心を法に住せしめる」と表現しているが、そのような心を以てしては、暗闇の中で何も見えないのと同じことになる。そうした執着を捨てれば、明るさの中で種々の形が見えて来る。

第十五節は、大乗の小乗との相違について説く。「如来は大乗を発す者のために説き、最上乗を発す者のために説けり」という。大乗を発すとは、この経を受持するだけではなく、それを広く他人のために説くことである。そうすることで、多くの人々を悟りの境地に導くことを、大乗を発すというのである。

これに対して小乗(小法ともいう)とは、自分自身の解脱のためだけに経を受持する者をいうが、そのような人々は、「我見、人見、衆生見、寿見」に執着している。つまり自我にとらわれているのだ。

第十六節は、この経すなわち金剛般若波羅蜜経の功徳をあらためて強調する。もしこの経を読誦したことで人から軽んぜられることがあったとしても、それは前世での悪行のゆえに悪道に堕すべきところを、その程度で済んだと思うべきで、やはりこの経の功徳と知るべきなのである。この経を受持すれば、前世の悪行も許され、阿耨多羅三藐三菩提を得ることができる。

この経の義は思義すべからず、果報もまた思義すべからざるのである。






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