法華経の構成

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法華経は28品からなっている。一時に成立したものではなく、ある時間の範囲内で順次積み重なっていったと考えられる。紀元50年から150年頃までの間に成立したらしい。もともとは27品であったが、天台智顗の頃に「提婆達多品」が「見宝塔品」第十一の次に加わって28品となった。

そんな成立事情もあって、その構成については、古来さまざまな分類がなされてきた。もっともオーソドックスな分類は、「安楽行品」第十四と「従地湧出品」第十五との間に線を引くものである。これだと前後それぞれ14品ずつとなり、わかりやすい。天台智顗もこの分類法を採用しており、前半を迹門、後半を本門と名づけている。

田村芳朗は、この伝統的な分類に意義を認めながら、かれなりの異なった分類法を提起している。それは、まず、「授学無学人記品」第九と「法師品」第十との間に線を引く。その理由は、「授学無学人記品」までは声聞を相手に説法していたのに対して、「法師品」以下では、説法の相手が菩薩に変わることである。「序品」第一は菩薩を相手にしているが、それは「法師品」以下が作られた後で、全体の序文の形で置かれたのであろうと推測している。

「法師品」以下の部分のうち、「嘱類品」第二十二までの部分と「薬王菩薩本事品」第二十三以下の部分との間に線が引かれるという。「薬王菩薩本事品」以下の部分は、流通分として、紀元150年頃までの間に、順次個別に作成されて追加されたものと考えている。

以上三つに分類したうえで、第一の部分については、声聞つまり小乗を相手に宇宙の統一的な原理が語られ、第二の部分については、菩薩を相手に大乗の基本的な思想たる久遠の人格的生命が語られ、第三の部分については、現実の人間的な活動が語られるとしている。

梅原猛は、この田村の分類を前提にして、それぞれの部分について、更に詳細にその特徴を考察している。まず第一の部分については、一乗の思想によって導かれるとする。一乗の思想というのは、仏教の救済の対象には、声聞も縁覚も菩薩の区別もなく、すべての衆生が平等に救済されるとするものである。大乗経典のうちの古い経典、たとえば維摩経などは、声聞や縁覚を救済の対象から除外していたのであったが、法華経では、声聞や縁覚を含めてすべての衆生を救済の対象とする。そこが大乗経典たる法華経の革命的な変化だと梅原は捉えているわけである。

第二の部分は、第一の部分が声聞や縁覚の救済をテーマにしていたのに対して、釈迦滅後の菩薩たちの修行がテーマとなっている。このことから窺われるのは、第一の部分が救済範囲の拡大という点で、空間的普遍性をテーマにしているのに対して、第二の部分は、時間的永遠性をテーマにしていることだと梅原は言う。第二の部分では、永遠に正しく、永遠に世界に通じる教えが語られるというのである。

こうした目的の相違に応じて、語り方にも相違が生じると梅原は言っている。第一の部分では、比喩が多く語られる。法華経には七つの有名な比喩があるが、それらは大部分が第一の部分で語られるのである。たとえば、「薬草喩品」における干天の慈雨の比喩、「譬喩品」における三車火宅の比喩、「化城喩品」における化城宝処の比喩、「五百弟子授記品」における衣裏繋珠の比喩などである。

これに対して第二の部分では、比喩ではなく象徴が語られるという。比喩と象徴の違いは、比喩が形あるものを別の形あるもので表現することであるのに対して、象徴は形なきものを形あるもので表現することだと言う。一乗の思想は形あるものだが、永遠は形なきものだというのが梅原の考えなのである。形なきものを形あるもので表現しようとすれば、それはとてつもない空想の如きものになるだろう。実際法華経の第二の部分には、「従地湧出品」におけるようなとてつもない空想があちこちに見られるのである。

第二の部分の中核、ということは法華経全体の中核と言えるのは「如来寿量品」だと梅原は言う。ここで、釈迦の自我偈というかたちで、仏の永遠性が語られる。実在の釈迦はわずか八十年の生涯を生きたということになっているが、本当の仏としての釈迦は永遠の昔から存在していたのだし、今後永遠の未来に渡って存在しつづけるということが語られる。梅原によれば、仏教が永遠について熱烈に語るのは、法華経が初めてだということである。

第三の部分については、第二の部分が書かれたあとで、順次作られたものであり、それぞれ個性的な菩薩たちについて語られる。薬王菩薩とか観世音菩薩といった菩薩たちである。観世音菩薩をはじめとしたこれら菩薩についても、語るべきことは多いが、ここでは煩雑を避け、あえて語ることをしないと梅原は言うのである。

ともあれ法華経は、中国天台宗の根本経典とされたほかに、大乗仏教の中核的な経典として、仏教者全体にとっての基本経典とされた。中国や日本で盛んになった浄土信仰や禅の思想も法華経に内在しているのである。







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