廻諍論を読むその二:アビダルマ批判

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廻諍論は、ニヤーヤ派の実在論批判に続いて、小乗仏教のアビダルマ思想を批判する。アビダルマもニヤーヤ派同様実在論の立場に立っているので、ニヤーヤ批判と同様の批判がなされてしかるべきなのであるが、仏教である点ではナーガールジュナと同じ基盤に立っている。そこでアビダルマ批判は、ニヤーヤ派批判とは多少異なる趣を呈することとなる。ナーガールジュナは、ニヤーヤ派の実在論を、専ら論理的な見地から批判したのであるが、アビダルマについては、仏陀の教えに反していると批判するわけである。

アビダルマの実在論は次のように定式化される。「事物の部位に通じた人々は、善である諸事物には善の本体があると考える。その他の諸事物に対してもそれぞれの本体の配分がなされている」

つまり、現象としての事物と、それの本質としての本体とは別のものであるとするのがアビダルマの実在論だとナーガールジュナは確認したうえで、それの批判にとりかかるのである。

ナーガールジュナは言う、「もし、善の本体が他によって生じてくるならば、それは他者的存在(他体)であるのに、どうして善である諸事物の自己存在となりえようか」。このように言うわけは、仏陀の教えに根拠がある。仏陀は、すべての事物は生起するものであって、その意味では無常であると教えている。だから、アビダルマのいうところの善の本体も無常だということになり、その存在の根拠を他に負っているということになる。そのようなものが自己存在になることはあり得ない、というのがナーガールジュナの理屈である。

無常だということは、あらゆるものには原因があるという縁起の思想を物語る言葉である。あらゆるものに原因があるということは、例外を許さない。アビダルマがいうところの本体もその例外ではなく、したがって無常なのである。ところがアビダルマは善の本体は恒常的だとする。その考え方が仏陀の教えに反している、というのがナーガールジュナの批判の要点なのである。

以上は仏陀の説を前提とした議論であり、その点では、アビダルマもナーガールジュナも同じ(仏教という)土俵で勝負をしていることになる。ところが、事物の本体についての見方に相違が生じるのは何故なのか。アビダルマは諸事物にはそれの恒常的な本体があるといい、ナーガールジュナは諸事物には恒常的な本体はないという。しかして両者とも、自分らの主張の根拠を仏陀の中に求めている。どうやら、かれらはそれぞれ別の解釈を仏陀の説に適用しているようである。アビダルマは、仏陀は実在論を述べたといい、ナーガールジュナは空の思想、つまりなにものも本体を持たず、したがって実在しないと述べた、と言うわけである。ここでも、ニヤーヤ派との関係においてと同様、前提の相違が議論の食い違いを生んでいるようである。

現象の背後に恒常的な本質を求める見方は、ニヤーヤ派やアビダルマだけではない。ギリシャ哲学においても、イデアの実在性という形で問題とされた。それに対して、現象一元論的な見方もあった。イデア論を展開したのはソクラテスであり、現象一元論を展開したのはヘラクレイトスに代表される生成の哲学である。面白いことに、ギリシャの場合には、まず現象一元論があって、それをソクラテスのイデア論が批判したのに対して、インド思想においては、まず伝統的な実在論があって、それをナーガールジュナの空の思想が批判したということになる。つまり、同じような問題が、洋の東西で、異なった方向性を帯びたわけだ。

アビダルマとナーガールジュナの対立は、論理的な面でも現前する。ナーガールジュナは、本体を否定するのであるが、それについてアビダルマは、存在しているものだけが否定されることができるという。たとえば家には壺はない、という場合に、壺のないことを否定するためには、壺というものが存在しいていないと成立しないというわけである。そうだとすれば、ナーガールジュナが本体を否定するためには、その本体が存在していなければならない。だから実在説が正しいのだとアビダルマは言うのである。

それに対してナーガールジュナは、もし否定は存在しているものについてだけ可能ならば、自分のよって立つ空の思想を否定することはできないと反論する。空の思想とは諸事物に本体はないとする考えだが、その考えを否定するためには、その考えが存在していることを前提にしなければならない。つまり空の思想を認めなければ、それを否定するわけにはいかないという理屈である。これはかなりアクロバット的な理屈というべきだろう。

ナーガールジュナは次のような仏陀の言葉で、廻諍論を締めくくっている。「空性と他による生起と中道とは、意味の等しいものである」と。空性とはすべての事物には本体はないという意味であり、他による生起とは、すべての事物は因果関係によって成立する、つまり縁起によっているとする意味であり、中道とは、宝積経迦葉品で展開された見方である。それはあらゆる事物は、肯定もできないし、否定もできない、真実はその中間にあるとする見方であった。これら三つが異なったものではないとするのが仏陀の教えである。そうナーガールジュナは捉えるのである。






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