わたしは、ダニエル・ブレイク:ケン・ローチ

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ケン・ローチの2016年の映画「わたしは、ダニエル・ブレイク(I, Daniel Blake)」は、格差社会イギリスにおける貧困を描いた作品。妻の介護で蓄えを使い果たし、あげくは病気のために働けなくなった老人と、二人の子供をかかえて貧困にあえぐシングル・マザーを描いた。そのかれらが、なんとかして公的な制度を使って生き延びようとするが、役所の形式主義に妨げられてなかなか思うように保護が受けられない。役所は、困った人々に積極的に手を貸すのではなく、かれらをなるべく排除するように動いている、といったメッセージも伝わって来て、たんなる貧困問題を超えて、社会的な分断と差別を感じさせられる映画である。

ダニエル・ブレイクは腕利きの大工だったが、病気のために仕事ができなくなる。そこで失業手当の受給を申請するのだが、その手続きがあまりにも煩瑣、かつ侮蔑的で、ダニエルはたびたび反抗的な態度をとる。それがわざわいして、受給手続きはうまく進まず、いつまでも受給できないでいるのだ。

一方、二人の子どもを抱えたシングル・マザーのケイティは、いろいろと仕事を求めるものの、うまくいかない。生活保護を申請するが、これもなかなか受給できない。そのうち、いよいよ金がなくなって、ついには飢餓に直面するまでになる。切羽詰まった彼女は、コンビニで万引きし、それを見咎められる。コンビニの店主は見逃してくれたのだが、そのかわりに売春宿に売り飛ばされる憂き目にあう。もっともこれは、生活に迫られてのことで、自分の意志でしたことだから、他人を恨む筋合いではない。

そんな彼女と子どもたちに、ダニエル・ブレイクは同情するのだが、自分自身の始末もつかない彼には、他人を助ける能力はない。それどころか、彼は、持病の心臓病が悪化して、死んでしまうのである。

こんな具合で、まったく救いのない映画である。そしてその救いのなさは、現代のイギリスが陥っている格差と分断から来ている、と強く感じさせる作品である。

この映画を見ていると、イギリスとは実に陰湿で険悪な社会だと思わせられるのだが、そうばかりも言っていられない。この映画のなかのイギリスの姿は、日本にもかなり当てはまるのだ。日本の役所は、生活保護世帯の苦境を自業自得の結果だと断定して、受給を妨害するようなことをしているし、中には「生保なめんなよ」とか言って、生活保護世帯を侮蔑するような役人もいる。社会が殺伐としている点では、イギリスも日本も五十歩百歩といわざるをえない。

ラスト・シーンのなかで、ダニエルの遺書が紹介される。人間として自尊心を失ったらおしまいだ、だから自分は自尊心にこだわり続けるというような内容だ。イギリスでは、貧乏人には自尊心が認められていないということへの、痛烈な抗議である。その言葉は、ケイティにも向けられているのだろう。どんな事情があっても、売春はするべきではない。売春は、人間としての自尊心を放擲することにほかならない。

今日のイギリスの格差社会の生みの親はマーガレット・サッチャーである。サッチャーは新自由主義を掲げ、自助を説いた。日本では、小泉純一郎が格差社会の生みの親であろう。その小泉を、当時の日本人は熱狂的に支持した。その支持が、自分自身の貧困化につながったわけだから、ひとをせめてばかりもいられないだろう。





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