久保亨「社会主義への挑戦」:シリーズ中国近現代史④

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岩波新書の「シリーズ中国近現代史」第四巻「社会主義への挑戦」(久保亨著)は、第二次世界大戦が終了した1945年から、中華人民共和国の成立を経て、1971年に国際連合に加入するまでの、四半世紀をカバーしている。その間における中国の歴史は、短期間であるにもかかわらず、激動に満ちていた。内戦の結果成立した共産党政権、朝鮮戦争への参戦、強引な社会主義化とそのひずみ、そして文化大革命によるすさまじいほどの混乱。こういった出来事が続いた。

この時期の中国をもっとも強く特徴づけるのは、共産党政権が成立したことだ。共産党政権であるから、究極的には共産主義を目指すはずで、当面はそれへの移行期として社会主義を推進するはずなのだが、実際の歴史はそう単純ではなかった。共産党が政権を握ったときには、新民主主義をスローガンにかかげ、共産主義は無論社会主義を云々することもなかった。それが朝鮮戦争後に急に社会主義をめざすようになったのだったが、その結果大混乱が起きて、膨大な数の餓死者を出すというような事態に陥った。それを修正するための動きが出ると、更に左翼バネが働き、それが文化大革命の混乱を生むという具合に、この時期の中国は安定とは程遠い状態が続いたのである。

その究極の原因を著者は、毛沢東を始めとした共産党の指導者に、政治についての明確なビジョンが欠けていたことに求めているようである。毛沢東自身、社会主義をめざすようになったのは、1954年以降のことで、それ以前には新民主主義を目指していた。共産党が国民党に勝って政権を取ったのは、共産党の社会主義路線を国民が支持したからではないことを毛沢東自身よく認識していたのである。国民は、国民党のやり方では未来がないと思ったがゆえに、共産党を支持したのであって、それは共産党なら民主的な改革をするだろうと思ったからだ、実際、共産党は国内の広範な民主主義勢力の協力を得て政権をとったのである。だから、人民共和国の建国当時には、目標は新民主主義の確立にあり、社会主義社会の建設といったものは、まだ視野に入っていなかった。

それが社会主義への挑戦へと舵を切り替えたのは、朝鮮戦争の衝撃による。この戦争に参戦した中国は、アメリカの武力とそれを支える工業力に圧倒された。このままでは中国はアメリカに滅ぼされてしまう、そうした危機感が社会主義への挑戦に毛沢東らを駆り立てた。かれらは整然とした理論とそれにもとづくプランにしたがって社会主義を目指したのではなく、現実への危機感に駆り立てられて拙速な社会主義化を望んだというのである。

そんなわけだから、毛沢東らの指導はあまり褒められたものではなかった。現実の認識に裏付けられたプランではなく、願望が先行する精神主義的な姿勢で臨んだために、かなり滅茶苦茶な政治指導を行った。大躍進政策と呼ばれるものがそれだが、これは全く荒唐無稽な政策であったので、中国が巨大な災厄に見舞われるのは避けられなかった。実際数百万規模の餓死者を出すという惨憺たる結果に終わったのである。

大躍進政策の失敗を踏まえて調整が行われた。それを主導したのは劉少奇や鄧小平である。かれらは現実的で漸進的な改革路線を代表していた。それに対して毛沢東は急進的な社会主義路線にあくまでもこだわり続けた。それが政策の相違による対立から権力闘争へと発展していったと著者は見ている。実際、1960年代半ばに起きた文化大革命は、政策の争いという側面をもってはいたが、それ以上に党内で少数派だった毛沢東が、直接民衆を味方につけて多数派に挑んだ権力闘争の側面のほうが強かったと著者は見ているようだ。

中国とソ連との対立にも、毛沢東の権力への意志が働いていたと見ているようである。中国はソ連を修正主義だとして攻撃したわけだが、それは毛沢東が劉少奇らを修正主義だといって攻撃するのとよく似ている。毛沢東は内外の修正主義を攻撃することで、自分が正統マルクス主義の立場から、社会主義路線を追求しているというポーズをとりたかったのであろう、というわけである。

ところがその毛沢東には、正統マルクス主義にもとづいた社会主義についての明確なイメージがあったかというと、かならずしもそうは思えない、というのが著者の見立てのようだ。当時は、社会主義といえば、現実にはソ連がモデルだったわけだが、毛沢東は対ソ対立もあって、ソ連型の社会主義をまともに評価していなかった。かといってソ連モデルにかわる社会主義のイメージを提示することもできなかった。精々が精神論にすぎず、その結果社会を大混乱に陥れるばかりで、新しい国家体制の確立に道筋をつけるどころではなかった。

新しい国家社会へ道筋をつけたのは、毛沢東ではなく、毛沢東が修正主義者と呼んだ連中である。その修正主義の路線が中国を導くようになるのは、1970年代半ば以降のことである。毛沢東が死んだのは1976年。その年を境にして中国は改革開放の合言葉のもとで、(毛沢東が罵倒した)修正主義の路線を歩むことになるわけだ。

こんな具合にこの本は、大戦後四半世紀における中国の歴史を、毛沢東を中心に考察している。それを読むと、この時代の中国は、毛沢東個人の権力への意志によって駆動させられたというふうに伝わってくる。そういう意味で毛沢東という人間は、歴史上稀にみる人物といえるであろう。





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