改革開放時代:莫言「豊乳肥臀」

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1970年代末から始まるいわゆる改革開放の時代は、中国社会に巨大な変化をもたらした。その最大のものは、人びとの価値観と生き方が劇的に変わったことだ。毛沢東時代の平等主義にひびがはいり、格差が容認されるようになった。才能のあるものが豊かになるのは当然だという気風が社会を動かすようになった。それにともない、一部の要領の良い人間が金銭的な成功をおさめる一方、要領の悪い人間は貧困にうちに取り残されるようになった。そうした中国社会の変化を、「豊乳肥臀」はシニカルに描き出している。それゆえ同時代に対する批判的な視点を感じさせるのである。

改革開放の時代の主人公たちは、金童の母親から見て二世代後、つまり孫の世代である。その孫たちの一部は社会的な成功をおさめる。その成功は、金銭的な成功という形をとる。要領のいい連中は、それまでは考えられなかった金銭的な成功を収めるのである。一方、かれらから叔父呼ばわりされる金童は、あいかわらず要領の悪いままだ。自分の力では生きていくことができないので、若い連中の世話になる。それでもなお、まともに生きていくことができないでいるのだ。かれは、自分を大事にしてくれた母親をも、まともな形で葬ることができないのだ。

金童のまわりの人物で、改革開放の時代に最初に成功した例として紹介されるのは、鸚鵡の韓だ。かれは鳥人韓が来弟に生ませた子で、金童の母親が育てたのだった。その鸚鵡の韓は、いまでは東方鳥類センターというものを経営している。鳥類にこだわったのは、おそらく父親の影響だと思うが、いずれにしても新しい時代のビジネスである。そのビジネスを韓は、親族で、やはり金童の母親が育てた魯勝利の力添いで成功させたのであった。魯勝利は銀行の頭取をやったり、故郷の市長になったり、自分の才覚で出世したのである。

刑務所や精神病院に入れられた後で、久しぶりに故郷に戻ってきた金童は、片乳の金という女と懇ろになる。この女は金童よりだいぶ年上だが、かつて金童に色目をつかったことがあった。今では廃品再生業で成功し、豊かな生活をしている。そんな彼女が金童にたいして保護者然として振る舞ったあげく、自分の情夫扱いするのである。その様を見ていた母親は大いに怒る。いい年をして、まだ女のおっぱいにしがみついているのかと言って怒るのである。母親に叱られた金童は片乳の金にまとわりつくのをやめるのだ。

ついで金童は、司馬糧と会う。これも母親が育てた子である。司馬糧は、金童と母親が苦境に陥っている時に救援にかけつけたのだ。母親は、市内の塔に住み着いていたのだったが、役人がそれを収用しようとした。この役人は、本来の職務である文物管理の仕事を放り出して、金もうけになる開発の仕事に精をだしていたのだった。そんな役人から司馬糧は母子を救ってくれたのだが、それには魯勝利も手を貸してくれた。彼女はいまや、故郷の市長なのである。

司馬糧はビジネスで成功をしていた。それを可能にした中国社会の変化について、かれは感慨深げに語る。「わしらが頑張り抜いて来たので、ひっくりかえった世の中が、もういっぺんひっくり返ったのじゃ。これからは、安心して、好い思いをさせてあげますぞ」

司馬糧は金童にビジネスチャンスをくれた。自分で立ち上げたブラジャー製造販売会社の社長のポストにつけてくれたのだった。ところが容量の悪い金童はそれをある女に横取りされてしまう。その女は、金童とは因縁のある一角獣という男の娘なのだが、要領の悪い金童からビジネスを乗っ取る魂胆で近づき、色仕掛けで金童を落とし、結婚に成功すると、その会社の実質的なオーナーに納まってしまうのだ。改革開放時代には智慧のあるものが成功する。金童のように智慧の足りない人間は、他人から食い物にされるばかりなのである。

こんなわけで金童は、毛沢東時代にもさんざん苦汁を舐めさせられたのであったが、改革開放時代にもあいかわらず浮かび上がることができない。それどころか、いっそう激しく沈んでいくばかりなのである。

小説は、金童が死んだ母親を沼地に埋葬するところで終わる。知り合いの人々の手を借りて、母親の死体を地中に埋めた金童は、母親に向って語り掛ける。「母さん、この役立たずの息子は、あんたに苦労ばっかりかけたが、それもこれですんだ。こうして死んでからは、仏になり、仙人になって、天国へ行って楽をしてくれ。これ以上は、このわしが足手まといになることはないから。わしも年を取って、ぐずの生涯ももうじきお終いじゃ」

そのとき、灰色の制服を着た警官がどなりつけてくる。「だれに断って、ここに死人を埋めた?」と。そして、「ただちに死体を掘り出して、火葬場で火葬にしろ!」と命じるのだ。金童はいろいろ言いつくろって、なんとか逃れようとするが、警官は聞く耳をもたない。この沼地は開発予定地になっているから、勝手に死人を埋めさせるわけにはいかないというのだ。もっともその警官は、それ以上追求することはなかった。もししつこく追及されたら、金童はいなおる覚悟でいたのだったが、警官はその場の任務を果せばよいのであって、最後まで事態に責任を持つつもりはないらしいのだ。

ともあれ、95歳で死んだ母親を葬ることで、金童の生涯で意味のある出来事は終ったとばかり、小説は静かにページを閉じるのである。その最後の言葉は、豊乳肥臀にこだわり続けた金童に相応しいものだ。曰く、「やがてわたしの頭上に浮かんでいた乳房が次第に一つに溶け合い、巨大な乳房に膨れ上がった。それはたえず膨れ上がって、天地の間で最大の巨峰となり、乳首にキラキラ光る白い雪を載せ、太陽と月が二匹の光る甲虫のようにその周りをぐるぐる回り始めた」






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