資本の流通過程:資本論を読む

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資本論第二巻の総題は「資本の流通過程」である。第一巻は「資本の生産過程」であり、その主な内容は、剰余価値の源泉についての考察であった。それに先行するかたちで価値形態論が論じられ、特殊な商品としての貨幣の本質が語られた。資本はその貨幣の形を通じて自己の運動を貫徹する。資本の目的は剰余価値の獲得である。剰余価値は資本の生産過程を通じて生まれるが、無条件に実現するわけではない。それが剰余価値として実現するためには、生産された商品が適正な価格で売れなくてはならない。すなわち資本は流通過程を通じてはじめて自己の目的たる剰余価値の取得を実現できるわけである。マルクスが資本の生産過程に続いて資本の流通過程をくわしく論じるわけはそこにある。

資本の循環の総過程は、W-G―P-W'-G'とあらわせる。Wをもって生産要素としての商品を買い入れ、商品の内訳である生産手段と労働力を結合させて生産を行い、その結果剰余価値を付与された商品を取得し、それを売ることでG'を得る。総過程はGに始まりG'に終わる。つまり貨幣から始まって貨幣に終わるわけだ。マルクスはこれを貨幣資本の循環と呼んでいる。

先の式はまた、次のようにもあらわせる。W-G(Pm+A)-P-W'(W+w)-G'(G+g)。Pmは原料を含めた生産手段であり、Aは労働力である。生産過程PはPmとAを結合することで成り立つ。生産の結果得られるW'は投下された資本に剰余価値が付加されているので、W+wとあらわせる。それが売られることで貨幣になると、G+gとなる。

この式をもとにしてマルクスは、貨幣資本のほかに生産資本と商品資本の概念を取り出してくる。生産資本とは、生産のために投下された資本であり、物的にはPM+Aという形であらわされる。この生産資本に注目すれば、資本の循環の過程は、P-W'-G'-Pとあらわされる。この式では、循環はPで始まりPで終わる。循環全体が生産過程を果てしなく繰り返すことを目的としているわけである。一方商品資本のほうは、W'-G'-W-PーW'とあらわせる。生産の結果得られた生産物は、売ることを目的とした商品であることから、商品資本というわけである。商品資本に注目すれば、資本の循環は商品資本に始まって商品資本に終わるということになる。

これら三つに分けられた部分はいずれも、密接不可分なもので、すべてが統合されて資本がよどみなく循環していくのであるが、一応異なった機能を指摘できるので、それぞれ独立させたうえで、それらの独得な機能を詳細に論じようというわけである。その際に重要なことは、資本の循環が円滑に行われるためには、以上三つの部分的な過程が滞りなく動いていくことである。マルクスは言う、「資本の循環は、ただそのいろいろな段階が停滞することなく次の段階に移っていくかぎりで、正常に進行する。もし資本が第一段階G-Wで停滞すれば、貨幣資本は凝り固まって蓄蔵資本になる。もし生産段階で停滞すれば、一方には生産手段が機能しないで寝ており、他方には労働力が使われないままになっている。もし最後の段階W'-G'で停滞すれば、売れないで堆積した商品が流通の流れをせき止める」

これら三つの段階のうち、剰余価値を付け加えるのは生産過程であり、流通過程は生産された価値の実現にかかわる。それは新たな価値を付加するものではないが、しかし流通過程で売れなければ、そもそも価値が実現しないわけであるから、資本の循環にとっては、生産過程に劣らず重要な役割を果たす。なお、総過程の出発点でG-Wが実現するためには、生産手段としての商品が市場に豊かに用意されていなければならない。そうでなければ、資本家は円滑な生産に取り掛かれないだろう。その場合にキーポイントとなるのは、商品としての労働力である。これがなければ、資本の目的である剰余価値の取得ができない。労働力があらかじめ市場に用意されているということは、資本主義的生産関係が社会全体をカバーし、労働力を売るほかに能のないプロレタリアートが多数存在していることを意味する。だから、資本主義的生産システムは、商品としての労働力の存在を前提としている。それは奴隷の売買が奴隷制の存在を前提にしているようなものだ、「奴隷の売買も、その形態から見れば、商品の売買である。しかし、奴隷制が存在しなければ、貨幣もこの機能を行なうことはできない。奴隷制が存在すれば、貨幣を奴隷の買い入れに投ずることができる。逆に、貨幣が買い手の手にあるということだけでは、けっして奴隷制を可能にするには足りないのである」

以上、資本の機能は、資本の循環の諸段階に応じて、貨幣資本、生産資本、商品資本に区別されるが、それらが一体となって円滑に動いているかぎりで、剰余価値の実現も円滑に行われる。資本の循環をもっと単純化すれば、生産と流通とからなり、それらの統一体としての資本が現われてくる。ところが学説史的には、これらの諸段階のうちの一部分を異常に強調するものがあった。重商主義は、流通に異常な重要性を付して、あたかも流通から新たな価値が生まれてくるように考えた。かれらは富の源泉である生産と、それを支える労働にほとんど考慮を払わなかった。これに対してケネーの重農主義は、富は流通から生まれるのではなく、生産から生まれるのだと正しく主張した。もっともケネーは、新たな価値の源泉としての剰余労働には考え及ばなかったのであって、それはかれの置かれた時代的制約のおかげだとマルクスは評価している。

ともあれ、資本主義的経済システムの根元をマルクスは、生産に求めた。生産は、資本主義システムの目的たる剰余価値を生みだすばかりではない。社会を前進させる原動力になっている。マルクスは、ケインズとは違って、需要に主導権を認めない。社会を駆動する主導権は生産にあると考えている。ケインズの有効需要理論は、需要と供給のバラスという資本家的立場の経済学の伝統に立っているわけだが、マルクスは需要と供給に究極的な意味を認めない。究極的な意味は生産の規模とか技術的な革新性にある。生産の規模は、剰余価値のあくなき拡大を求める資本家の欲に根差しており、技術革新のほうは、これもまた新たな欲望の対象をひとりじめにすることで、剰余価値の独占的享受をねらう資本家の野心に根差している。「資本主義的生産によって生産される商品量の大きさは、この生産の規模とその不断の拡大欲求によって規定されるのであって、需要と供給の、充足されるべき諸欲求の、予定された範囲によって規定されるのではない」






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