固定資本の補填:資本論を読む

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前稿の表式は、部門Ⅰと部門Ⅱとが互いに作用しあって、全体として見れば、単純再生産がとどこおりなく実現することを示していた。その場合に前提となるのは、部門Ⅰの生産物である消費財と、部門Ⅱの生産物である生産財とが、もれなく売れるということだった。つまりその年に生産されたものは、その年のうちにもれなく売れると仮定することで、単純再生産が成り立つというわけだった。しかしこの仮定はかならずしも現実的ではない。というのも、この仮定では、部門Ⅰのcも部門Ⅱのcも全部売れるということになっているのだが、現実にはかならずしもそうではないからである。固定資本の更新については、特別な事情が働くので、その年に作ったものがその年のうちにすべて売れきれるというわけにはいかないのである。

その理由は、固定資本の耐久性ということに根差している。建物や大規模機械などは、かなり長い稼働機関をもっている。場合によっては数十年にわたる場合もある。その長い期間にわたって少しずつ価値を損耗していき、その損耗分が生産物の価値の一部として移行するのである。したがってそうした固定資本の補填は、数年がかりでなされる。資本家は、固定資本の損耗部分に対応する金額を毎年積み立てておいて、固定資本の寿命がつきた時に一気に全体を更新するという行動をとる。それゆえ、ある特定の年に着目すれば、固定資本の更新にあてられるべき部分の多くは貨幣の形で蓄蔵されるのである。

固定資本はさまざまな要素からなりたっているので、それらの更新は、社会全体で見れば、互いに相殺される部分もある。社会全体ではかなりの規模の固定資本があるわけで、それらの一部は損耗分の価値を貨幣で積み立て、ほかの一部は寿命を迎えて全面的な更新を必要としている。それらを互いに相殺することで、その一年間に最終的に貨幣で蓄蔵される部分の規模が決まる。それに応じて、生産財のうちで売れ残る部分の規模も違ってくる。

マルクスは、それをいくつかのケースにわけて、細かくシミュレーションしている。単純化していえば、次のようになろう。ある場合には、更新すべき固定資本の規模が、貨幣で蓄蔵すべき規模をはるかに上回るであろう。そういう場合には、固定資本の生産物が不足するということになろう。逆に、貨幣で蓄蔵されるべき部分が、更新すべき部分を上回る場合には、前とは反対の結果、つまり固定資本の生産物の過剰が生ずるということになろう。第三の可能性として、更新されるべき部分と蓄蔵されるべき部分が一致して、その結果固定資本の生産は過不足なく行われたということになろう。

マルクスのこのテーマは、資本の再生産を、単年度と複数年度とのからみのなかで考える必要を前面に出す。単年度だけで見れば、貨幣で蓄蔵すべき固定資本のための金額は、その年だけだは捻出されない。マルクスの想定によれば、固定資本の全部がその年のうちに更新されるわけではなく、一部は将来の全面更新に備えて貨幣で蓄蔵される。これをモデルの部門Ⅱcに即して考えれば、Ⅱcの一部分は生産手段の形で補填されるが、残りの一部、たとえば200cは貨幣の形で蓄蔵される。ということは、この200cに相当する部分については、前年度までに蓄蔵されてきた貨幣の中から補填されるということだ。というのは、消費財という形をとったその200cは、たしかに部門Ⅰの資本家や労働者によって買われるのであるが、その結果部門Ⅱの資本家にわたった200cの貨幣は、部門Ⅰに還流することなく、部門Ⅰの資本家の懐に滞留するのである。そのことは、200cがシステムの内部から外部へはみ出すことを意味する。別の言い方をすれば、固定資本の更新については、システムの内部だけでは説明できないということだ。

こういう問題が生じるのは、再生産過程を単年度の内部に限ってみることから生じるのであって、前年度までの貨幣の蓄蔵を予めシステムに組みこんでおれば、生じないわけである。

ともあれ、この問題にマルクスがこだわるのは、資本主義的生産の特徴である無政府的な動きが、固定資本の適正な再生産を阻害し、その結果恐慌が起きる可能性があると考えるからである。マルクスの恐慌論は、基本的には過剰生産に着目したものだが、その過剰生産は固定資本の再生産の部面で発生する可能性が高いと考えるわけである。逆の場合の過小生産についていえば、それは生産拡大へのイニシャチブとして働くので、景気の過熱を生むことはあっても、恐慌をひきおこすおとはないと考えていた。

恐慌は、マルクスの時代までには定期的に発生しており、したがって経済学者もその重大性に気づいていたはずだが、それを本質的な見地から論じる学者はいなかった。そのわけは、古典派を始め主流派の経済学者が、資本主義経済を俯瞰的に見なかったことによるとマルクスは批判している。資本主義的生産を、マルクスが以上で示したモデルにもとづいて、俯瞰的かつ計量的に分析すれば、どの部分の不具合が全体の不具合をもたらすか、よく見えてくるはずだとマルクスは言うのである。とりあえず確かなこととして見えてくるのは、再生産システムの一部としての生産財の生産に過剰が生じ、そこからシステム全体に過酷な負担がかかることで、ダウンするということである。その固定資本の過剰生産というのは、システムを安定化する働きをすることもあり、したがって多少の過剰がないシステムはダウンしやすいのであるが、しかしその過剰が度を超すと、恐慌を引き起こすとマルクスは考えるのである。






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