ロリータを読む

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新潮文庫版の邦訳「ロリータ」には、大江健三郎によるあとがきが付されている。あとがきから読み始めることを日頃の習性にしている小生は、この場合にも大江のこのあとがきから読んだ次第だったが、大江がなぜ、「ロリータ」のためにあとがきを書く気になったか、それはこのあとがきを読んだだけでは明らかにならなかった。たまたま自分の生まれた年がロリータのそれと一致していたとか(両者とも1935年)、小説の導入部分でアナベル・リーへの言及があるが、アナベル・リーこそは自分の青春のあこがれだったとかいったことが書いてあるだけだ。ただ、自分は、ロマンチックな小説を生涯書いたことがないが、「ロリータ」はもっともすぐれたロマンチック小説として、うらやむべきものと思っている、というようなことを書いているので、大江は「ロリータ」をロマンチックな小説として捉えているようである。

ナボコフ自身はこの小説をどう思っているか。かれは、「『ロリータ』と題する書物について」という小文を書いていて、その中で、自分の小説を、バルザックやゴーリキーやマンとは正反対だと言っているところから見れば、どうやらヨーロッパの主流派の小説とはまったく異なったものとして、自分の作品を位置付けたいと思っているようだ。ヨーロッパの主流派の小説は、多少乱暴な言い方をすれば、小説の中に思想性を持ち込むのが好きなのであるが、そういう思想性こそが、文学を駄目にする、とナボコフは考えているようなのだ。

そのナボコフによる思想性の概念と、大江のいうロマンチックなものとは、どこかで通底するところがあるようだ。ロマンチックのもともとの意味は、カール・シュミットに指摘されるまでもなく、無意味なおしゃべりということなので、思想性とはおよそ正反対なものだ。だいたいこの小説は、語り手による脈絡のないおしゃべりからなっていると言ってもよいのである。もっとも大江についていえば、大江はこの小説を脈絡のないおしゃべりの集まりとは見ておらず、逆に、さまざまなサブプロットが要領よく並べられ、それら相互に見事な対応関係が見られると言っているので、小説全体を意図的に構想された建築物のように見ているようである。

大江を脇に置いて、この小説を脈絡のないおしゃべりの集まりと捉えた場合にも、個々の部分がナンセンスからできており、したがって全体もナンセンスだと決めつけるのは、この小説に対して酷にすぎるといわねばならないだろう。ただのナンセンスなら、文学史上有数のスキャンダルをひきおこすこともなかっただろう。そのスキャンダルは、読者公衆がこの小説をポルノの一バリエーションと受けとめたのみならず、そのポルノが年端のいかない少女を対象としたものだったことから、実に破壊的で犯罪的だと受け取ったことで、未曽有の反響を生み出したのであった。この小説が発表された1950年代には、ポルノはまだ市民権を得ていなかったし、ましてや少女をセックスの道具としてもてあそぶような行為は、偽善的なキリスト教道徳の到底許すところではなかった。

もっともナボコフ自身は、この小説が道徳的な見地から攻撃されるのはある程度織り込み済みで、自分としてはそれよりも、この小説が反米的だと言われたことのほうが応えたと言っている。反米的だと言われてしまうと、今日の日本で反日的だといわれるのと同様、社会からの全面的な撤退を迫られるような気持ちに陥るからであろう。アメリカで食っていかねばならない作家としては、なんといってもアメリカ人から愛してもらわねばならず、そのためには反米的というレッテルを押されては命取りになる。じっさい1950年代のアメリカは不寛容な社会で、いわゆるマッカーシー旋風に吹き流されて、公の舞台からの退場を余儀なくされる人々があとをたたなかったのである。

言い古されてきたことではあるが、この小説が世界の文学史上に持つ意義は、少女を対象とした倒錯的な性愛、別の言葉で言えば、変態性欲をテーマとしたことにある。変態性欲としては、サディズムとマゾヒズムが典型的な症例として知られていたが、この小説は年端のいかない少女を相手にした新たなタイプの変態性欲の存在を世に広く知らしめたのである。少女相手の変態性欲は、この小説が書かれる以前にもあっただろう。しかし、いまでも広く知られているところだが、この小説が書かれるまでは、人々の意識に上ることはなかったのである。少年相手の変態性欲は、ソクラテスの時代から広く認知されていたが、少女相手の変態性欲は、人畜にも劣る行為として、意識のうちで大っぴらに問題化されることはなかった。あたかもそうすることが、この不道徳な行為を免罪するかのように受け取られたからであろう。

少女を対象とした変態性欲は、道徳的に許しがたい以上に、人類の健全な発展のうえでも有害である。場合によっては少女の生殖器官を破壊して、不妊にさせることもある。女性の間に不妊症が広がるのは、人類にとってこのうえなく不都合なことなのである。じっさいこの小説の中のハンバート・ハンバートは、わずか12歳の少女ロリータを凌辱するのであるが、その折のロリータの生殖器官は未発達で、二つの腸骨の間はせまく、したがって中年男の巨大な男根を受け入れるほどに成熟していなかった。そんなロリータをハンバート・ハンバートは、毎晩強姦し続けるのである。それに対して、孤児になってしまったロリータには、ハンバート・ハンバート以外頼れるものはいない。生きていくためには、ハンバートの男根を受け入れるほかはないのである。

こう言うと、この小説は、一人の悪党による少女強姦の話と受けとられかねないが、小説はそういう外観はまとっておらず、あくまでも、年の差があり、一方が未成年者という事情はあるが、男女の間の性愛、大江健三郎いうところのロマンチック・ラブを描いたものなのである。そういえるわけは、この小説が、三人称による客観記述ではなく、一人の語り手による個人的な物語という体裁をとっているためである。ハンバート・ハンバートの意識に中では、かれのロリータへの愛情は純粋なものであって、ロリータと別れ別れになることは、生きながらにして死んだも同然なのである。じっさいハンバート・ハンバートは、ロリータを失った嘆きを、絶望的なため息に込めて絞りだすのであるが、そのかれの嘆きは、愛する人を失った男に共通するものだ。愛する人を失った男には、ハンバート・ハンバートの悲しみが身に染みてわかるのでる。そこがこの小説が、ロマンチック・ラブ小説といわせる所以なのであろう。





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