商業資本:資本論を読む

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商業資本をマルクスは商人資本と呼び、商品取引資本と貨幣取引資本とをそれに含めている。より重要なのは商品取引資本である。貨幣取引資本は、基本的には、商品取引を媒介するにすぎない。商品取引資本とは、資本の運動を構成する生産過程と流通過程のうち、流通過程の機能が独立したものである。資本主義の低い発展段階では、生産者自身が流通の機能を実行しているのであるが、それによって、資本主義的生産は大きな制約を受ける。なぜなら、流通過程に費やされる時間は、生産が中断されるからである。これを第三者に任せて、生産に専念すれば、余計な手間が省ける。そのことによって、生産をスムーズに行い、また規模を拡大することもできる。というわけで、商品取引資本は、資本主義的生産にとって、必然的なものなのである。

この商品取引資本について、マルクスは次のように簡潔に定義する。「それは社会的分業の特殊な一形態であって、これによって、元来は資本の再生産過程の特殊な一段階でなされるべき、つまりこの場合には流通の段階でなされるべき機能の一部分が、生産者とは別の特別な流通担当者の専有機能として現われるのである」。流通機能が独立することで、「生産者にとって自分の商品がより早く貨幣に転化させられるだけではなく、商品資本そのものがその変態を、生産者の手の中でする場合よりも、より早くすませる」のである。

要するに商品取引資本としての商業資本は、流通過程のなかで機能している資本以外のなにものでもない。ところで、資本の流通過程では、価値も剰余価値も生み出されないというのがマルクスの考えである。価値や剰余価値を生み出すのは生産過程であって、流通過程ではない。流通過程では、「商品の変態のほかには何も行われないのであり、その変態そのものは価値創造や価値変化とはなんの関係もないのである」

では、商品取引資本としての商業資本は、価値に関してどのような役割を果たすのか。それは、価値や剰余価値を、直接に生み出しはしない。しかし、「流通期間の短縮に役立つ限りでは、それは、間接には、産業資本家の生産する剰余価値を増やすことを助けることができる。商人資本が市場の拡張を助け資本家たちのあいだの分業を媒介し、したがって資本がより大きな規模で仕事をすることを可能にする限りでは、その機能は産業資本の生産性とその蓄積とを促進する。商人資本が流通機関を短縮する限りでは、それは前貸資本に対する剰余価値の割合、つまり利潤率を高くする。商人資本が資本のよりわずかな部分を貨幣資本として流通期間に閉じ込めている限りでは、それは、資本のうちの直接に生産に充用される部分を拡大する」

要するに商業資本は、それ自体直接に価値や利潤を生みだすことはないが、それらがスムーズに実現されるのを助け、それによって、資本主義システム全体がより多くの利潤を獲得することを助けるのである。商業資本が、利潤の獲得にあずかれるのは、そういった機能への報酬としてである。その利潤自体は、生産資本が生み出した剰余価値の一部を、商業資本が自分の分け前として受け取るのである。

商業資本が受け取る利潤をマルクスは商業利潤と呼ぶ。そこで問題は、その商業利潤がどのようにして決まるのかということである。表面的には、商業利潤は商品の仕入れ価格と販売価格の差額である。仕入れ価格を超えた販売価格の超過分が商業利潤である。ということは、商人は仕入れ価格より高く売ることで利潤を得るということになる。このことは、商人はいわば自分の任意で販売価格を設定し、商品本来の価格より高く売ることで利潤を得るというふうにうつる。実際俗流経済学はそのように説明している。しかしよく見れば、それは外観に過ぎないということがわかる。

マルクスは言う、「彼(商人)はそれらの商品を価値よりも高く、または生産価格よりも高く、売るのではない。というのは、彼がそれらの商品を価値よりも安く、または生産価格よりも安く、産業資本家から買ったからにほかならない」。これはどういうことか。商品の仕入れ価格は、生産価格そのものに一致しているのではなく、商業利潤を考慮して、その部分を控除した価格で商人に売られるということである。つまり、生産資本と商業資本とは、同じ剰余価値を分かち合う関係にあるわけだ。

その剰余価値が、生産資本と商業資本とによって分かち合われる結果、両者の利潤率は一致することになる。それを平均利潤と言う。平均利潤が成立するのは競争のためである。資本の移転が容易だという前提に立てば、利潤率がバラバラならば、より高い利潤率を得られるほうに資本は集中する。そのプロセスのなかから利潤率が平均化されていくわけである。それは、生産資本と商業資本との関係においても成り立つ。両者は同じ平均利潤を得られるようになっているのである。

では、その平均利潤はどのようにして決まるのか。これは生産価格が成立するメカニズムと基本的には同じである。いま仮に、生産資本が流通を含めてすべてのプロセスを自分で行っていると仮定しよう。前貸し資本の総額を900とし、剰余価価値率を100%とする。すると、たとえば次のような式が得られる。
 Ⅰ 720c+180v+180m=1080
この資本家は自分で剰余価値を独占し、利潤率は20%である。これに商人資本が介入し、その前貸し資本は100としよう。商人資本は新しい価値を生まないのであるから、かれが介入することの結果は次のようになる。
 Ⅱ 900+100+180=1180
この式においては、利潤率は18%である。この18パーセントの利潤率が平均利潤率となり、それを生産資本と商業資本が分け合って受け取る。すなわち生産者は、900×1.18=1062、商人は100×1.18=118を受け取るのである。ということは、商業資本が介入することで、(生産者にとっての)利潤率は下がるということであるが、しかし商業資本の介入によって、市場全体の規模は拡大するわけであるから、絶対的な利潤量は増大するのである。

以上のようなメカニズムをマルクスは次のように概括する。「こうして、商人資本は、剰余価値の生産には参加しないにかかわらず、剰余価値の平均利潤への平均化には参加するのである。それゆえ、一般的利潤率は、すでに、商人資本に帰属すべき剰余価値からの控除分、つまり産業資本の利潤からの控除分を含んでいるのである」

このように、商業資本の利潤の成立には、それなりの根拠があり、それは競争を通じて、剰余価値が平均利潤に転化したことから説明できる、というのがマルクスの考えである。それに対して俗流経済学者はもとより、スミスやリカードのような優れた経済学者でさえも、商業利潤の成立について、深く考えることがなかった。というより彼らでさえ、商業資本を本格的に考察することはなかった、とマルクスは指摘するのである。

というのも、商品取引としての商業は、資本主義的経済が成立する以前から存在し、従ってそれ独自のメカニズムを内在させているからである。だから資本主義的生産様式だけにかかわらせて商業を説明することはできない。もっと大きな歴史的視野に立って説明することが必要である。その場合、問題は、商業はそもそも共同体の内部で発生したものではなく、共同体同士の接点で生まれたということである。そのようなものしての商業においては、商品はかならずしも価格どおりに売買されるとは限らない。そこには、俗流経済学が好きな瞞着の要素がある。「商業資本が未発展な共同体のあいだの生産物を媒介する限りは、商業利潤は詐欺瞞着のように見えるだけではなく、大部分は詐欺瞞着から生まれるのである」。資本主義以前の経済システムにおいては、「商業資本の優勢な支配はどこでも略奪制度をあらわしているのである」

こういう事情があるから、商人は商品をその価値よりも高く売ることで利潤を得ると、まじめな顔で主張する経済学者が絶えない、とマルクスは言うわけである。






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