法華経を読むその十:法師品

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法華経を構成する各章を、内容的・成立年代的に分類すると三つの部分からなると先述した。最も古層に属するものは「方便品」第二から「授学無学人記品」第九までの八章で、これは仏弟子たちの成仏を約束する授記を中心にしていた。どんな人も成仏するための資格をもち、それは人間に生まれながらに備わっている仏性の賜物だというのが、これらの諸章を貫く根本思想だった。

「法師品」第十から「嘱累品」第二十二までの、「提婆達多品」第十二を除いた十二章に、序章を加えた部分が次に成立した。「提婆達多品」は天台智顗の頃に追加されたものであり、法華経全体が一応の成立を見てかなり経ってからのものだ。「方便品」以下の第一の部分では、衆生の成仏へ向けての授記が説かれ、したがって衆生が対象であるのに対して、「法師品」以下の部分は、主に菩薩を対象として、大乗仏教の根本思想である、衆生の救済のあり方及びそれへ向けての布教の意義について説かれる。いわば菩薩のための布教の道、菩薩道が説かれるわけである。法華経の目的は、仏の教えの神髄としての法華経を通じて衆生を教化することであり、その教化の主体として菩薩を取りあげているので、この部分が法華経全体の中心と考えてよい。

「法師品」第十は、釈迦仏が薬王菩薩を通じて、八万の大士すなわち菩薩に向って、菩薩道を説くという形をとっている。菩薩道とは衆生を救済する道ということであるが、それは法華経を広めることだという。つまり法華経という特定のお経に、衆生を教化する力が込められているので、それを広めることで、衆生を救済することができるとするのである。このように、法華経というお経の功徳を説く所に、法華経というお経の特徴がある。かの日蓮が、南無妙法蓮華経と唱えさえすれば救済されるとした所以である。

こうした考えは、法華経を唱える者を謗る者は、仏を謗る者よりも罪深いという言葉に現れている。たとえば次のような言葉だ。「薬王よ、若し悪人ありて、不善の心を以て、一劫の中に於て、現に仏前に於て、常に仏を毀罵するとも、其の罪は尚、軽し。若し人、一の悪言を以て、在家にてもあれ、出家にてもあれ、法華経を読誦する者を毀しらば、其の罪は甚だ重し」。こういうわけで、法華経が説く菩薩道とは、法華経を広めることであり、それは仏そのものより大切なものなのである。

諸々の菩薩は、法華経を広めるために如来から遣わされた者、すなわち如来使だという。お経は説く、「若し是の善男子、善女人にして、我が滅度の後に能く窃かに、一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かば、当に知るべし、是の人は則ち如来の使にして、如来に遣わされ、如来の事を行ずるなり。何に況んや、大衆の中に於て、広く人の為に説かんをや」。如来の事とは、一切衆生を救おうという仏の仕事の事である。菩薩はその仕事を如来に代わって行うべく、如来から遣わされた使いなのである。

その使命は法華経を広めることによって果たされる。お経は続けて説く、「其れ法華経を読誦する者あらば、当に知るべし、是の人は、仏の荘厳を以て、自ら荘厳するなり。則ち如来の肩に荷担せらるることを為ん」。法華経を読誦する者は、仏と同じようなすばらしい姿となり、仏の肩にかついでもらえる。それほど法華経の功徳は大きいのである。

しかしその法華経は、簡単に理解できるものではないとも説かれる。お経は説く、「此の法華経は、最も為れ信じ難く、解し難きなり。薬王よ、此の経は、是れ諸仏の秘要の蔵なれば、分布して妄りに人に授与すべからず。諸の仏・世尊の守護したもう所なれば、昔より已来、未だ曽て顕説せざりしなり。而も此の経は、如来の現在にすら、猶、怨嫉多し、況んや滅度の後をや」。

難信難解とは、どうしても信解できないという意味ではなく、そう簡単には理解できないという意味である。深く信解するためには、大信力、志願力、諸善根力が必要である。大信力とは法華経の真理を信じて疑わない力であり、志願力とは、法華経の教えを他人に教えようとする力、諸善根力とは、あらゆる善をなす根本の力である。これらの力を備えることによって、法華経の教えを信解し、それを広めることができるのである。そういう人、つまり菩薩は、如来と共に宿り、如来の手でその頭をなでてもらえるのである。

肝心なのは、仏塔を建てて舎利を収めることではない。舎利を収めないでも、仏の全身はそこにあるからである。肝心なことは、法華経の教えをよく信解し、それを衆生に広めることである。お経は説く、「若し善男子、善女人ありて、如来の滅後に、四衆の為に、是の法華経を説かんと欲せば、云何して当に説くべき。是の善男子、善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、爾して乃ち、四衆の為に、広く斯の経を説くべし。如来の室とは、一切衆生の中の大慈悲心是れなり。如来の衣とは、柔和忍辱の心是れなり。如来の座とは、一切法空是れなり。是の中に安住して、然して後に、懈怠ならざる心を以て、諸の菩薩及び四衆の為に、広く是の法華経を説くべし」

如来の室とは大慈悲心をいい、如来の衣とは柔和忍辱の心をいい、如来の座とは一切は空であると見ることである。これらを以て、衆生を教化するようにと、法華経は説いているのである。

法師品は法華経の教えをわかりやすく説くのに、高原穿鑿のたとえを用いる。この譬喩は、懈怠への戒めとして用いられる。高原で井戸を掘ってもなかなか出てこない、辛抱強く掘り進めているうちに、乾いた土が泥土にかわり、やがて水が出て来る。懈怠せずに頑張れば報われるのである。それと同じように、法華経の教えも一朝一夕でわかるものではない。辛抱強く受持しているうちに、次第に身についてくるものである。それゆえ、懈怠の心を抑えて、法華経の受持に励むようにつとめよ、というのがこの譬喩の説く所である。

なお、題名になった法師という言葉については、お経の最期の偈の部分で出て来る。
  若し法師に親近せば 速かに菩薩の道を得
  この師に随順して学ばば 恒沙の仏を見たてまつることを得ん
文脈からして、如来の教えという意味のようである。その教えが法華経に込められていることは言うまでもない。






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