かかとを失くして:多和田葉子を読む

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「かかとを失くして」は、日本の文学空間においては、ちょっとしたセンセーションだったようだ。村上春樹が「風の歌を聞け」でデビューして以来のことではなかったか。村上の場合には、自分自身に起きて欲しいが、色々な都合を考えればそうもいかないようなことを、いわゆる飛んでる文体でさらりと描いたものだが、多和田の場合には、自分には決して起きて欲しくないが、しかしなんとなく巻き込まれそうなことを、かなり浮世離れした文体で、ねっちりと描き出した。そこが当時の日本人にはセンセーショナルだったのではないか。

そんなわけでこの小説は、内容と形式の両面にわたって日本文学の常道から大きくはみ出している。まず内容から。その常道から離れているところを確認すると、これはかかとを失った女性が、書類結婚をして、その夫と一緒に生活するために見知らぬ国へやってくるということから始まる。かかとを失ったというのは、人騒がせなことでなかなかイメージがわかないが、どうやら足が地についていないことの比喩的な表現らしい。主人公の女性であるこの小説の語り手は、小さなカバン一つを下げて見知らぬ国へやって来たわけだから、その国については何も知らないわけで、だから足が地についていないような不安を感じるのは無理もない。とはいえこの主人公は別に不安を感じているわけでもない。自分がこの国にやって来たのは、書類結婚をした夫と会うためなので、その夫と何とか会おうとする努力をするのだが、なかなか会うことができない。そのことにある種の焦燥感を持たないでもないが、しかしそれは不安ではない。彼女は、かかとを失ったこと自体には、たいした不都合を感じてはいないのだ。かえって、かかとがなければ前後左右どの方向へも自在に動けるのではないかと、そこに便利さを感じるほどなのだ。もっとも、かかとのない足をじろじろと見られるのは照れくさくて嫌なのだが。

夫と会いたいのだが、なかなか会えないという設定は、カフカの小説の世界、とくに「城」の設定を思い出させる。「城」の主人公も自分の目的を果たすためになんとか雇い主に会おうとするのだが、雇い主はさまざまな工夫をして主人公から逃げ回る。そこに読者は落ち着きのなさを感じさせられる。それと同じように、この小説のかかとを失くした語り手の女性は、書類結婚をした夫と会いたいと思うのだが、夫はどうも彼女から逃げ回っているようである。もっとも完全に逃げ回っているわけではなく、彼女のために朝食の用意をしたり、一日分の小遣い銭を与えてくれたりする。なにしろ彼女は一文なしなのだ。その上彼女は、金を計画的に使うということが出来ないで、所有した金は即座に消費してしまうたちなので、一挙に沢山の金を貰うのは不都合でもあるわけだ。夫がそのことを知っているのかどうかわからぬが、とにかく毎日一日分の小遣いを、朝ベッドから起きたときに目に付くようにテーブルの上に置いてある。金額は、一日ごとにお札一枚分ずつ増えていくといった具合に。

主人公が現実に夫と会うことはない。彼女が夫と会うのは夢の中でだ。夢の中で夫は、いろいろと具体的なことを言う。学校に行くように勧めたのも夢の中だ。彼女はさっそく学校に出かけていって授業を受ける。相手は年増の女性で、生徒の要望に応えて、この国での日常生活の方法、たとえば風呂の入り方などについて教えてくれる。見知らぬ国では、風呂の入り方も、母国とは違っているものだ。

語り手はまた、病院にも出かけていくが、それも夫の間接的な指示にもとづいていた。テーブルの上に病院の予約確認書が置かれていたのだ。その予約は自分のためのものだった。そこで早速病院に行くと、変った看護婦、婦長が応対する。婦長はどこか身体の具合が悪いのかと聞く。それに対して彼女は、こうして病院にいることが身体の悪い証拠だと答える。すると婦長は引き出しの中から、「異文化とかかとに関する社会医学的考察」と題したパンフレットを取り出して彼女に示す。そんな婦長を彼女はすっかり信頼し、恋心のようなものさえ抱くようになる。「もう婦長のいない生活なんて想像もつかなくなって」しまうのだ。

一方、夫のことも気にかかる。夫は自分の部屋に閉じこもって扉には鍵をかけているのだ。そこで彼女は腕のよい鍵屋に夫の部屋の鍵を壊してもらうように頼む。腕のよい鍵屋は鍵を壊すことも上手なのだ。彼女の期待に応えてくれそうな鍵屋は、扉の鍵を壊しにかかる。鍵は次第に壊れてくる。それを彼女は固唾を呑んで見守る。もしかしたら、扉の向こう側には死んだイカが横たわっているだけかもしれない。それでもよいではないか、何ごとも起こらないよりは、何かが起こるほうがましなのだから。イカについていえば、彼女はこの国ではじめて会った子どもたちが次のように歌うのを聞いていたのだった。「旅のイカさん、かかとを見せておくれ、かかとがなけりゃ寝床にゃ上がれん」。つまりかかとのない人間は、かかとのないことを通じて、イカと結びついているわけだ。そのイカのような自分の夫が、イカの死体となって部屋の中に横たわっている光景は何ら不思議なことではない。

次に形式面、つまり文体の奇抜さだ。この小説の文体は息が長い。その点ではさきほど比較した村上春樹とは対照的だ。村上はアメリカ文学の正統派をまねて、短くきびきびした文体を追求している。それに対してこの小説での多和田の文体は、谷崎潤一郎のあのねちねちとした文体を思わせて、しかも息が長い。その息の長さは、源氏の文体に通じるところがある。そう小生は感じたのだが、多和田自身は、「エクソフォニー」というエッセー集の中で、クライストの文体をとりあげて、それを褒めているから、もしかしたら意識的にクライストの息の長い文体をまねているかもしれない。だが、クライストと多和田とでは、同じく息が長い文体と言っても、息が長くなる理由が異なっている。それはドイツ語と日本語の文法上の相違に基づく。ドイツ語は、多和田も言うように、複文節をいくつも加えることができ、その複文節が文章をやたらと長くすることを許す。だから息の長い文章をわざと作りやすい。一方日本語のほうは、いわゆる主語を修飾するのに、いくらでも長い文章をさしはさむことができる。日本語を長くする要素は、主語と修飾語の独自の関係にある。そこがクライストのドイツ語とは違うところだ。だから、多和田の文章が息の長いものになるわけは、やはり日本語の特性によるものと考えたほうが自然ではないか。

その息の長い文体で、かかとを失くした女性の奇想天外な行動振りが描かれるわけだから、読者はそこに、時空を超越した、ある種永遠の御伽噺のようなものを感じるのではないか。これは大人のために書かれた御伽噺だというふうに。その御伽噺に相応しく、小説のキリの部分もかなり息の長い文章で締めくくられる。分節がかなり長いので、ここではその後半部分を披露しておこう。

「・・・部屋の真ん中に死んだイカがひとつ横たわっているという事実、この事態は不思議でも何でもなく、私が未亡人になってここに立っていること、それも別にめずらしいことでなく、妙な繋がりやいきさつさえ消えてしまえば私は新しい出発が出来るはずで、そもそも私が殺したんじゃない、私は自分の卵と帳面が取り戻したくて、ドアを壊してもらっただけなのだから、と心の中でしきりに繰り返していた」

小説はこんな不可思議なつぶやきで終わるのである。小説自体が不可思議だから、結末が不可思議になるのは避けられないという具合に。

なお、この小説の中の主人公の異邦人としてのあり方を、多和田自身の境遇に模して考えるのは自然なことだろう。多和田自身は、若くしてドイツに移住し、そこで異邦人として生きてきた。その異邦人としての自分が抱いた思いを、この小説の中で吐き出したというのは大いにありそうなことだ。そのあたりはまた、別途に考えてみたい。






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