国際連盟とワシントン会議:近現代の日中関係

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中国が第一次世界大戦に参戦したのは、戦勝国となることで、列強との不平等条約を改正し、国権を回復することを期待してのことだった。特に、日本による21か条要求は全面的に撤回させたかった。ところが、中国の要求はことごとく退けられた。そのため中国はヴェルサイユ条約の締結を拒んだのだった。こうした動きは、中国国内のナショナリズムに火をつけた。その結果起きたのが5・4運動である。

運動の発端は、北京大学の学生が、パリ講和会議の結果に反発して、5月4日に天安門に集まり抗議デモをするよう呼びかけたことだった。当時は、今の天安門広場のような広い空間は存在せず、広場とは名ばかりの狭い空間だったようだ。その広場の南方向に旧北京駅があり、その東側に各国の公使館が集中していた。学生たちは、日本を除く各国の公司に面会を求め、請願書を手渡そうとした。この日は日曜日だったこともあり、アメリカ以外の公使館では面会ができなかった。アメリカの公使館では書記官が対応し請願書を受け取った。請願書の主な内容は、日本による21か条要求の撤回だった。その後、曹汝霖宅を襲撃し火をつけた。曹汝霖は21か条要求を認めた責任者と見られていたのである。

運動はやがて全国規模に広がった。各地で山東問題についての講演会が催され、上海では労働者によるストライキもおきた。それに対して北京政府は取り締まる姿勢を続けた。各国に対して統治能力を示す必要があったからだ。

この5.4運動を、中国史の転換点とする見方が、特に大陸では強い。その根拠は、学生のほかに労働者大衆が広範に参加したということで、そこに中国の真の近代化のしるしを見るのである。学者によっては、この運動を転換点として、中国は近代から現代に移行したとする見方をする者もいる。現代とは、中共史観によれば、共産党が中心的な役割をする時代である。5.4運動の時には、中国共産党はまだ生まれていないが、労働者が立ち上がったことで、その助走の役割を果たしたということになる。

パリ講和会議で要求を実現できなかった中国は、引き続きその実現の努力を続けた。一つはドイツとの単独講和である。それを通じてドイツとの間では不平等な関係をほぼ清算することができた。その他の国との関係については、できたばかりの国際連盟に期待した。国際連盟が発足するのは、1920年11月だ。中国は理事国になることで発言権を高めることをめざし、何度か非常任理事国になることに成功した。日本は、最初から常任理事国になった。常任理事国は他に英仏伊の三か国であった。アメリカも常任理事国入りが期待されたが、アメリカは国際連盟に加盟しなかった。

国際連盟は、中国の国権回復の希望にはほとんど答えることがなかった。そのかわりに、1921年秋からワシントンで会議が催され、そこで中国問題が議論された。ワシントン会議の主な目的は、英米日三国間で軍縮の規模について合意することだった。アメリカが国際連盟に加盟していないため、今後の国際秩序について別途決める必要があり、その課題の中でも軍縮が最大の重みをもっていたのである。それにあわせて中国問題が議論された。中国の要求する21か条問題とか、不平等条約改正の見込みなどについてが主な議題となった。

中国は、この会議に100名を超える代表団を送り、万全を期した。北京政府のほかに孫文の広東政府も参加を求められたが、広東政府は自分が唯一の正当な政府であることを主張し、北京政府との同席を拒んで参加しなかった。広東政府は、孫文の主導のもとで1917年に成立し、華南地方を主な地盤としていた。中国は事実上二つの政権からなっていたのである。もっとも広東政府の実力はまだ低かったし、西洋諸国は北京政府を承認して、広東政府を承認していなかった。しかし、不平等条約の改正に応じない理由として、北京政府が全国を有効に統治できておらず、政府としての能力に著しく欠けるということをあげていた。

ワシントン会議は、英米仏日伊蘭白西中の九カ国が参加していた(イギリスは他に墺加印乳の四カ国を代表していた)。会議ではこの九カ国全部の合意を条約制定の原則にしていた。その原則に基づいて「九カ国条約」が締結された。これは中国問題をテーマにした条約であり、次のような内容を含んでいた。①中国の主権、独立、領土的・行政的な保全を尊重すること、②中国が安定した政府を確立・維持できるよう最大限の機会を提供すること、③中国全域で、すべての国が商工業の機会を均等に得られるようにすること、などである。一方、領事裁判権や外国軍・外国警察など主権にかかわる問題については、議論はされたが解決には至らなかった。とはいえ、この条約は中国の主権を強調しており、以後中国が国際社会に自国の主張をする際の拠り所となった。

ワシントン会議とほぼ平行する形で、21か条問題のうち山東問題の解決が図られた。日本は、山東半島と青島における権益を中国に返還することに同意した。その見返りに、中国はいくばくかの代償金を支払うことになった。かくして日本は、1915年以来七年にわたった山東省の占領から手を引くことになったのである。一方、満州における権益については、日本はこれを議論することを避けた。満州の権益は譲れないというのが日本の大原則だったのである。

山東問題をめぐる日本のこの決断には、時の宰相原敬の考えが反映していた。原は、日本が単独で中国に進出し、他の列強特にアメリカと対立することを恐れた。また、中国における反日感情の高まりについても憂慮した。そうした原の考えを外相の幣原喜重郎も共有していた。原と幣原は国際協調と軍備縮小による財政負担の減少を重視していた。原は1921年に暗殺されるが、幣原はその後も原の意思を受け継いで協調外交を展開した。世に幣原外交と呼ばれるものである。これは対華21か条要求を突きつけて、単独行動と軍備拡大に走った大隈重信とは正反対の姿勢であった。





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