やがて来たる者へ:ジョルジョ・ディリッティ

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2009年のイタリア映画「やがて来たる者へ(L'uomo che verrà)」は、ナチスドイツによるイタリア支配の残忍さを描いた作品である。1943年7月にムッソリーニが失脚すると、ナチスはイタリアに介入し、ムッソリーニを復権させて傀儡政権を作り、北部イタリアに進出した。それに対して北部イタリアでは対ドイツ・レジスタンス運動が広範に起こった。ナチスは血の弾圧をもってそれを抑圧しようとした。この映画は、北イタリアを舞台として、ナチスに対抗する人々と、それに血の弾圧を加えるナチスの凶暴さを、一人の少女の視点から描いたものである。

ナチ・ドイツの凶暴さは、独ソ戦で遺憾なく発揮されたという印象が強い。なにしろ独ソ戦では、ソ連側に2000万人の死者が出たという。ナチスはソ連の領土で戦ったわけだから、土地の住民からの攻撃を覚悟せねばならず、それが住民の大量殺戮につながった。同じようなことは、日中戦争でも起こったわけで、中国の領土で侵略活動を続ける日本軍は、各地で大規模な住民殺戮を犯した。それを中国側では三光作戦と称し、日本軍の残虐性を非難したものである。

ともあれ、この映画は、1943年12月における北イタリアの一村落を舞台に、そこの住民が対ナチスのレジスタンス運動にかかわる一方、それに手を焼いたナチス側が、住民を皆殺しにする過程を、一少女の視線を通じて描くのである。ナチスは当初、住民との友好関係を重んじていたが、兵士がパルチザンによって殺されると俄然牙をむき出し、住民を皆殺しにするのである。ソ連においては、ナチスは住民を建物に閉じ込め、火をかけて焼け殺す方法をとった場合が多かったようだが、この映画では、住民は閉鎖空間に集められて、マシンガンで一斉射殺される。主人公の少女の家族も、ことごとく殺されるのである。少女は生まれたばかりの弟を抱いて、あてどもなくさまよう。その姿を写しながら映画は終わるのである。

とにかく、陰惨な場面が多い。よくここまで残酷になれるものだと、あきれ果てるほどである。ナチスドイツへのイタリア人の怒りが込められているのを感じる。戦後60年以上たっても、その怒りが静まることはなかったと思わせられる。その背景にはおそらく、ドイツ人の間で、ナチス時代の残虐行為を忘却する動きがあることへの、イタリア人のこだわりがあるのだと思う。それは中国で近年相次いで作られた戦時中の日本軍の残虐性をテーマにした映画とも共通する背景だろう。「金陵十三釵」とか「鬼が来た」といった映画は、このイタリア映画と前後して公開され、中国では大ヒットとなった。それもやはり、日本で歴史修正主義が広まっていることへの反発という側面が指摘される。「金陵十三釵」は南京事件をテーマにしたものだが、これは日本では公開されることはなかった。

ともあれ、この映画を見ると、ナチスやファシストに対する北部イタリア人の怒りが伝わってくる。その怒りがムッソリーニを吊るしたのであろう。






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