資本主義の終わりはどのようにしてやって来るか

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カール・マルクスが人類史上に持つ意義は、資本主義の歴史的な制約を指摘し、それには始まりがあるとともに終りがあると主張したことだ。どのような事情が資本主義を終わらせるか。それについてマルクスはかなり詳細に語っている。しかし、その終わり方がどのようなプロセスを経て実現するのかについては、かならずしも明確なメッセージを発したわけではない。とりあえず考えられることとして、資本主義システムの矛盾が労働者階級にとって耐えられない桎梏になったときに、人間らしく生きたいと願う労働者階級が、その桎梏を取り払い、自分たちの生きやすいシステムの構築に向けて立ち上がるだろうと予測した。その場合に、桎梏を取り除くための労働者の行動は革命という形をとるだろうと考えていた。その場合に、マルクスの念頭にあったのは、1871年のパリ・コミューンであった。パリ・コミューンの経験を踏まえれば、成功裏に革命を成就することができるのではないか。そんなふうに考えていただろうと思われる。

パリ・コミューンがマルクスにもたらした教訓は、既存の国家機構を温存させていては、革命は決して成功しないということだった。革命を成功させるためには、既存の国家機構を解体して、それに代えて労働者階級自前の権力機構を確立しなければならない。とりあえず焦点となるのは、軍事組織と警察組織である。これらは支配階級の階級支配の道具として、その中核をなすものであり、これを解体して、それに代わるに労働者の利害に忠実な組織を立ち上げなければ、革命は成就しない。パリ・コミューンは、この二つをほぼ無傷で放置したために、ブルジョワ政府による武装解除に屈したわけである。

その上で、ほかの国家機構を順次解体して、それらを労働者の利害に忠実な機関に置き換える。その場合に、国家機構編成の原理は労働者階級の独裁である、とマルクスは考えた。すべてがこの原理に基づいて再編成されなければならない。ところで、資本主義社会の統治原理は民主主義であり、経済活動を含めた社会活動を律する原理は自由放任である。これらの原理は、統治システムについては三権分立となってあらわれ、社会システムにおいては自由主義となってあらわれる。マルクスは、三権分立をはじめとしたこうした諸原理は、基本的にはブルジョワによる階級支配に都合のよいように出来ていると考え、労働者階級の革命は、それらを無条件に温存させるわけにはいかないと考えた。ということは、条件によっては存続させてもよいということだ。民主主義とか自由主義の諸原理は、歴史的に見れば、封建支配に対するブルジョワジーの戦いから確立されたものであり、その限りで進歩的な意義をもった。たとえば、内心の自由とか表現の自由とかいったいわゆる自由権を、歴史的に制約されたものとして、軽視することは妥当ではないだろう。ブルジョワ的な諸権利には、労働者階級の革命が受け継ぐべきものも含まれているのである。人類の歴史というのは、斬新的な進歩の積み重ねであって、古い時代の遺産の上に新しい時代の原理が重なるようにして進んでいくように出来ている。新しい時代は、古い時代を全く否定して、いわばゼロから始めるというようなわけにはいかないのである。

先に労働者階級の独裁といったが、これはマルクス自身の言葉である。この言葉でマルクスは具体的には何をイメージしていたのか。これも詳細に論じられているわけではなく、かなり漠然とした内容なのだが、とりあえずは、すべての統治システムを労働者の利害に合わせて作り直すということだとは言える。三権分立は、マルクスによれば、ブルジョワ的な統治システムであるが、それは資本、地主、封建領主といった歴史上の諸階級の利害のバランスをとることをそもそもの目的とした。ブルジョワ支配の初期においては、たとえばイギリスでは国王の権力がいまだ強く、行政権を抑えていた国王の権力をブルジョワが多数を占める議会が牽制していた。司法は司法で、少数者の利害が踏みにじられないことを担保する意義をもたされていたが、その少数者には地主や貴族もいたのである。そんなわけで三権分立の原理は、多様な階級で構成されていた社会を一つにまとめる上での妥協的な制度であったわけである。

ところが労働者階級の独裁は、労働者の利害だけを尊重する。それは階級敵であるブルジョワの利害を尊重しないばかりか、ブルジョワの特権を廃止するのである。だから、階級間の妥協をそもそもの目的とした三権分立は、労働者の独裁とは相容れない。とはいえ、三権分立を構成するそれぞれの要素、つまり立法、行政、司法の機能が必要なくなるというわけではない。革命後においても、労働者の意思を確認するための機能は立法という形で残り、その労働者の意思を実行する機関としての行政の機能は残る。また犯罪がすぐになくなるわけではないので、司法の機能も残るだろう。ただ、その存在形態が従来の三権分立のあり方とは大分異なったものになるのは避けられない。労働者の独裁という観点から、立法機能と行政機能は労働者の代表のもとに一元化され、司法機能のほうは、労働者に直接責任をもち、労働者の意思によって解任される人々によって担われる。三権分立におけるような、司法の絶対的な独立性というものは、労働者の独裁とは正面から対立すると思念されるのである。

そこで、この労働者の独裁をめざす革命がどのようにして起こるかが問題となる。マルクスは、資本主義システムには崩壊に至るいわば自然的な傾向があり、その自然性というか必然性によって、いわば棚から牡丹餅式に、たいした労力を費やさずに資本主義が崩壊すると思わせるような議論を行っているが、そんなに単純なものではないであろう。少なくとも、資本主義システムが、自分の内部から崩壊する、あるいは自壊するとはいえないようである。やはり外的な一撃が必要になるのではないか。その一撃は、パリ・コミューンの場合には、労働者たちによる武力行使という形をとったわけだが、その武力行使が不徹底だったおかげで、簡単に武装解除されてしまった、とマルクスは考えたのである。

もっとも、パリ・コミューンは、資本主義システムがまだ上り坂にあるときに起こったもので、したがって資本主義の矛盾が高まっていたとはいえ、資本主義システムにはまだ復元のエネルギーが十分に残っていた。そういう時代に起きたパリ・コミューンの経験を、労働者革命の唯一の参照例とするわけにはいかないだろう。それに、パリ・コミューンの時代には、資本のグローバル化はほとんど進んでおらず、資本主義的経済システムは、基本的には国家を地盤として動いていた。だから、労働者革命も、国家単位とならざるを得ないところがあった。

しかし、資本主義システムは、いまやグローバリゼーションの波に乗って世界規模に拡大している。そういう時代の労働者革命を、国境の中での出来事に矮小化していいのかという問題はある。それでも、全く国家を度外視して労働者革命が成功するとも思われない。革命はやはり国家単位で起こり、諸国家の労働者階級が連帯するかたちでインタナショナルな拡がりを見せるのであろう。というのも、グローバル化時代の資本主義システムは、国境を越えて広がっており、その矛盾が国境の枠内に封じ込められることはありえないだろうからだ。一国のシステムの崩壊は、グローバルなつながりを通じて他の国に連鎖的に影響する。じっさい、21世紀におきた金融危機は、ただちに世界規模での反応を伴ったものだ。もし近い将来資本主義が終わりを告げるとすれば、それはおそらく世界規模での現象となるであろう。文字通りグローバル、つまり地球規模での資本主義の崩壊が生じると思われるのである。

いまや資本主義は末期的な症状を呈している。資本が利子を生まなくなったことは、その象徴的な事例だ。資本主義とは、文字どおり、金が資本に転化するシステムであり、その資本が利子を生むところにシステムの原動力があるわけだから、資本が利子を生まなくかったことは、資本主義が終わりに近づいていることを物語っているのである。それでも金は余っている。余った金が金融市場に流れて、人々の投機熱を煽り立てている。いまやグローバルな資本主義システムは、実体経済を遊離して、マネーゲームが横行する事態となった。金融が世界を動かす、それも健全な動かし方ではなく、投機的な思惑が支配するすこぶる不健全な動き方が罷りとおっているのである。資本主義システムの崩壊は、おそらく世界規模での巨大な金融破綻によって引き起こされるのではないか。







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