法華経を読むその二十二:嘱累品

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「嘱累品」第二十二は、法華経本体の最後の部分である。これを以て法華経の教えとその功徳の説明が完了する。「薬王菩薩本事品」第二十三以後は、法華経の教えを実践した人(菩薩)の業績が具体的に説かれる。その部分は、法華経本体が成立した以降、順次付け加えられていったものと考えられる。

嘱累とは、累(面倒なこと)を委嘱あるいは委託するという意味である。具体的には、法華経の教えを広めることを菩薩たちに委ねるということである。これまでも釈迦如来は、一部の弟子に対して、授記したり法華経を広めることを委託してきたわけだが、最後にはすべての菩薩たちに対して、それを委託するのである。この場合、菩薩は仏教を修業する人という意味で使われているので、実質的には仏に帰依するすべての人たちに対して、釈迦仏が法華経を広めるように委嘱するということになる。委嘱された人々は、自分のうちに成仏する可能性を潜めているわけであるから、教えを広めること自体が、自分にとっても成仏のための修業になるわけである。その修業がまた、大勢の衆生を救うことともなる。

釈迦仏は、法座から立ち上がると、右の手を以て無数の菩薩たちの頭を三度なでながら、次のように言った。「我は無量百千万億阿僧祇劫に於て、是の得難き阿耨多羅三藐三菩提の法を修習せり。今、以て汝等に付嘱す。汝等よ、当に受持し読誦して、広く此の法を宣べ、一切の衆生をして普く聞知することを得せしむべし」。頭をなでるのは、厚い信頼をあらわす。それを三度もなでたのは、委嘱についての釈迦仏の並々ならぬ意欲を感じさせる。

ついで委嘱の理由について語る。「如来には大慈悲ありて諸の慳悋なく、亦畏るる所もなくして、能く衆生に仏の智慧・如来の智慧・自然の智慧を与うればなり。如来は是れ一切衆生の大施主なり。汝等も亦随って如来の法を学ぶべし。慳悋を生ずることなかれ」。如来は大いなる慈悲心があるゆえに、衆生を惜しみなく救おうとする。それについては何ものをも恐れるところがない。どんな迫害を受けても衆生を救おうとするのである。衆生を救うために如来は、仏の智慧・如来の智慧・自然の智慧を授ける。この三つは別のものではないが、あえて区別すれば、仏の智慧とは光明のこと、如来の智慧とは真如のこと、自然の智慧とは人々が生まれながらに備えている仏性のことをさす。これらを衆生に気づかせることが、救いにつながるのである。

続いて教えを広めるについての心得が説かれる。「未来世に於て、若し善男子・善女人ありて如来の智慧を信ぜば、当に為に此の法華経を演説して、聞知することを得せしむべし。其の人をして仏慧を得せしめんが為の故なり。若し衆生ありて信受せざれば、当に如来の余の深法の中に於て、示し教え利し喜ばすべし。汝等よ、若し能く是の如くせば、則ち為れ已に諸仏の恩を報ずるなり」。未来の世に於て、如来を信ずる者には法華経を説いてやるべし。如来を信じない者には、法華経以外のわかりやすい教えを説いてやって、すこしづつ信仰を深めるように導けばよい。このようにして仏の教えを広めることが、仏恩に奉ずることになるのである。

以上の釈迦仏の呼びかけに対して、その場にいた菩薩たちは、三度にわたって、声をあげて答えた。「世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし。唯然、世尊よ。願わくは慮したまうこと有らざれ」。

すると釈迦仏は、十方より来た分身の仏たちを、それぞれ本土に還らせようとして、次のように言った。「諸仏は、各安らう所に随いたまえ、多宝仏の塔は、還って故の如くしたもう可し」。分身仏とは、無数の仏たちをさす。それらが分身仏と言われるのは、すべての仏は皆、永遠の昔から同一の仏だとされているからである。その仏たちは、それぞれの仏国土をもっている。その仏国土に還って、自分の衆生たちを導きなさいと釈迦仏は言うのである。

その場に居合わせたすべての人々は、多宝如来や上行菩薩を含めて、釈迦仏の説く所を聞いて大いに歓喜したのであった。

法華経は、釈迦仏の教えを聞くために霊鷲山に集まった菩薩や衆生に対して、釈迦仏が授記をすることに始まり、やがて法華経の教えの核心を説き、それに基づいて菩薩が衆生を教化するためにどうしたらよいのかについて説いてきたのだが、この嘱累品に至って、すべての衆生の成仏可能性が説かれ、また菩薩たちがそれに向けて努力すべきことが確認されるのである。そういうことから、この嘱累品までを、法華経の本体とみなすわけである。







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