変化の知覚:ベルグソンを読む

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ベルグソンの意図したことをごく簡略化して言うと、人間の知識についての西洋哲学の伝統的な考えを根本的に批判し、新しい知のあり方を提示することにあった。西洋哲学の伝統的な考えは、これもまたごく簡略化して言うと、プラトンのイデアに代表されるような、概念的かつ理念的なものを基準にして、その抽象的な原理にもとづいて具体的な事象を説明するということになる。事象は我々にとって知覚を通じて与えられるから、その知覚をそのままに受容するのではなく、概念のフィルターを通して知覚を理解するという形になる。これはいわば逆立ちした考えだとベルグソンは批判して、知覚の根源性と概念の派生性を主張するのである。

「変化の知覚」と題した小文は、知覚の根源性と概念的なものの派生性を主題的に論じたものである。これはオックスフォード大学において、二度にわたって行った講演を筆記したもので、一回目は知覚と概念との関係、二回目は変化と不動との関係をテーマとしている。一回目と二回目とは有機的につながりあって、知覚と変化、概念と不動とがこだましあうような関係になっている。

まず、知覚と概念との関係について。我々の知識はすべて知覚を材料としている。「思惟はどんなに抽象的であってもその出発点はいつも知覚の中にある。悟性は、合わせたり離したり、整えたり列べたりするが、創り出しはしない。悟性には素材が必要であって、その素材は感覚又は意識からしか来ない」(河野与一訳、以下同じ)

ところが我々は、この知覚をもとに概念を創り出し、その概念で知覚を説明することを好む。カントのカテゴリー論はその典型であって、知覚の内容をカテゴリーにあてはまることで、事象の認識が成立すると考える。これには相当の理由があるとベルグソンは言う。人間の知覚は、そのままでは非常に無定形なので、我々の悟性はこれを直接的には捉えることが出来ない。カントのカテゴリーに相当するような、認識上の枠組みに当てはめる必要がある。カテゴリーとは事象の属性を理論的に体系化したものだが、その属性のどれかを事象が含んでいると見なせれば、それをカテゴリーの枠組みにあてはめることができる。カテゴリーの内容は我々にとってあらかじめ周知なものであるから、それに当てはまれば、我々は事象を理解したつもりになれるのである。

事象の属性を特定のカテゴリーにあてはめるという作業は、事象のもつ多様性を単純化して受け取るということである。事象にはさまざまに多様な面がある。その多様性は混沌といってもよい。もし人間がそうした渾沌とした状態のままで事象を受け取る能力があれば、別に特定のカテゴリーにあてはめなくても、全体としての事象を認識することができよう。しかし人間の認識作用にはそのような能力はないといってよい。だから我々は、事象のうちのある面に注意を集中して、それを多様性から乖離させ、その乖離させたものを特定のカテゴリーにあてはめるわけである。これはある意味避けられないことである。しかしその代償は大きい、とベルグソンは考える。

我々が事象のうちから特定の属性を取り出すことを分節という。分節とは、文字通りにいえば、渾沌とした全体性としての事象を、ある特定のカテゴリーに切り分けることをいう。事象にはさまざまな属性があるわけだが、その多数の属性の中から特定のものに注目して、それを特定のカテゴリーにあてはめるのである。カテゴリーとは概念的なものであるから、分節は渾沌とした具体的な事象を概念的で抽象的なものへと転化させる作業と言うことができる。

知覚の内容は、そのままでは渾沌としていて分節されておらず、またたえず変化している。それに対して概念は分節されていてしかも不動である。プラトンのイデアがそれを代表している。イデアは、知覚に起源を持つものだが、一旦イデアとして自立すると、かえって知覚の根拠とされる。プラトンは、現象はイデアの似姿だと言ったものである。我々にはプラトンのように、不動の概念にもとづいて変化する知覚を理解しようとする傾向があるが、それはある意味避けられないこととはいえ、それによって失うものも大きい、というのがベルグソンの考えである。

最も大きな代償は、知覚のもつ豊かさが犠牲にされ、我々の世界を見る眼が貧しくなることだとベルグソンは言う。芸術はその貧しから知覚の豊かさを回復してくれる。芸術は、事象をその渾沌とした豊かさのままに、全体として我々に見せてくれる。それによって我々の世界についての経験は飛躍的に豊かになる。分節によって切り取られ排除された部分も含めて、事象の持つすべてのものが全体として見えてくる。これによって我々の世界体験は、深みと拡がりを獲得する。我々は自分が世界と一体化したような気分を味わえるのだ。

次に、変化と不動の関係について。知覚はそもそも変化するものであり、概念は不動のものであった。ベルグソンによれば、知覚がもとであり、概念は知覚から派生したものである。しかし我々には、抽象的な概念を優先してそれから具体的な知覚を説明しようとする傾向がある。同じように、変化するものがもとで、それから不動が派生するのだが、我々には、不動を優先してそこから変化を説明しようとする傾向がある。その典型的なものがエレア派のゼノンの難問だという。ゼノンが、アキレスは亀を追い抜けないと言ったのは、運動を分割できると前提したからだ。分割できるものであれば、その分割は無限にできるということになる。アキレスが亀に追いついたと思ったときには、亀は更に一歩前に進んでおり、それは無限に繰り返されるから、アキレスは永遠に亀に追いつけないとゼノンは言うのだが、それは詭弁だとベルグソンは言う。運動が分割できると前提するからそういう議論になるので、運動は分割できず、一体のものだと前提すればその詭弁は解消する。

こうした議論を手がかりにして、ベルグソンは変化と不動との関係について論じるわけである。それに関連してベルグソンは時間の一体性について考察している。時間は分割できないというのがベルグソンの主張である。我々はよく、過去・現在・未来という具合に、時間を分割できるもののように考えるが、実際には時間は分割されず、一体のものだというのである。その例としてベルグソンは記憶を取り上げる。我々は過去の出来事を脳髄のどこかの部位に記憶としてたくわえ、時宜に応じてそれを取り出す(思い出す)というふうに考えている。しかし実情はそうではない。現在と過去とは断絶しているわけではなく、連続している。普段現在ばかりが意識にのぼり、過去が意識の底に沈んでいるように思えるのは、我々の注意力に限界があるからで、じつは過去は現在と連続しているとベルグソンは言う。だから必要に応じて過去はいくらでもよみがえってくるのである。我々の記憶が連続しているのは、事象そのものが連続しているからだ。その連続しているものに切れ目を入れ、事象を分節するのは、我々の思考の経済の要請にもとづくものである。真相は連続しているのだが、あたかもそれを断絶しているものとして分節するわけである。ベルグソンは言う、「事象は変化であること、変化は不可分であること、不可分な変化に於ては過去が現在と一体になっていることを確信すればいいのであります」

このようにベルグソンは時間の一体性ということに着目して、独自の時間論を展開する。その時間論はハイデガーとは別のベクトルを有している。ハイデガーの時間論は未来から現在を見るのだが、ベルグソンの時間論は現在から過去に遡るのである。ハイデガーの未来は人間の生命の限界を画するものだが、ベルグソンの現在は人間の生命の集約点とでもいえようか。






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