A:オウム真理教を追ったドキュメンタリー

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森達也が1998年に公開したドキュメンタリー映画「A」は、原一男の「ゆきゆきて神軍」と並んで、日本のドキュメンタリー映画の傑作といわれる作品である。「ゆきゆきて」で助監督を務めた安岡卓司が製作に加わっているのも何かの因縁だろう。しかしその出来栄えについては、賛否に激しい対立がある。

オウム真理教が坂本弁護士一家殺害事件など、社会を震撼させる事件を起こすのは1989年からだが、それが頂点に達したのは1995年3月20日の地下鉄サリン事件。それを受けて、1995年5月16日には麻原彰晃が逮捕された。麻原逮捕後も教団は存続を続けたが、その責任者の一人で教団広報部副部長の肩書きを持つ荒木浩に密着するかたちで、このドキュメンタリー映画の撮影が始められた。森は家庭用のビデオカメラを使って、かなり細かいところまで映像に収めた。その映像は一時お蔵入りの事態にも直面したらしいが、なんとか編集して劇場公開にこぎつけたということらしい。公開されたのは1998年のこと、まだ事件の余韻が生々しく残っている頃のことなので、賛否にわたって大きな反響を呼んだ。

森は荒木に直接あたって撮影の許可をとったようだ。荒木がなぜそれを受け入れたか。映像シーンのなかでも出てくるが、教団は記録が苦手なので、このままでは自分たちの言い分が理解されないことを危惧し、釈明の意味合いでドキュメンタリー映画の作成に協力するつもりになったということらしい。

しかし、荒木が言うようには、彼等の言い分はなかなか伝わってこない。捜査当局やメディアに対して受身の対応しかできずに、右往左往する様子が伝わってくる。そのため、見ていて迫力がない。荒木はじめ教団の生き残りメンバーは、何となく麻原を敬愛しているだけで、麻原の起した事件の意味合いにまともに向きあっていない印象が強い。だから、かれらが何のためにこんな映画作りに協力したのか、その意図がわからない。そんなこともあって、この映画を批判するものは、教団が事件を反省していないとか、そんな教団の幼い言い分を垂れ流しているだけのドキュメンタリー映画は、じつに憎むべきだといった言い方をしたものだ。

そこが、この映画が、「ゆきゆきて神軍」とは全く異なって、迫力不足になる所以である。「進軍」の主人公奥崎は、その思想の妥当性はともかくとして、自分の主張に信念を持っていた。だから、場合によっては自分が敵と考えるものに対して暴力を行使したりもする。そうした迫力が、この映画の中の荒木たちには感じられない。かれらはオウムの一員として、それなりに責任を持つべき立場にある、というのが当時の社会一般の常識的な見方だったが、その当事者たる荒木ら生き残りの幹部は、自分自身も戸惑っているなどと、まるで他人事のような言い方に徹している。そこに、時間を距てて、ある程度頭が冷えた時点でこの映画を見ても、釈然としないものを感じる。

映画は、荒木が両親と会うために京都へ里帰りするシーンで終わる。それもかなりウェットな演出になっている。それを見ると、森は荒木に対してかなりな感情移入をしているというふうに伝わってくる。そこがオウムを憎むものをイライラさせた原因だと思う。

なお、この映画の中の警察やメディアの描き方は、かなり嘲笑的である。メディアはただのゴシップあさりとして描かれ、警察は間抜けな連中として描かれている。そんな間抜けだから、知能犯(たとえばカルロス・ゴーんのような)にバカにされるのだというような、嘲笑的メッセージが伝わってくる。たしかにこの映画の中の警察は、あまりにも格好が悪いと言わざるをえない。

なお、タイトルの「A」は、荒木の頭文字をとったということだ。





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