時間と自由:ベルグソンを読む

| コメント(0)
岩波文庫で邦訳が出ているベルグソンの著作「時間と自由」は、学位論文として書かれたもので、ベルグソンの思想活動の出発点となるものである。もともとのタイトルは「意識の直接与件について(Essai sur les données immédiates de la conscience)であった。それが英訳された際に訳者が「時間と自由」と訳し、日本でもそれが踏襲された。この著作の内容は、時間と空間の関係及びそれを踏まえた上での自由と必然性との関係についての誤った考えへの批判に費やされているので、「時間と自由」という題名でも差し支えないといえよう。

三部構成になっている。第一章は「心理的諸状態の強さについて」と題して、質としての強さと量としての大きさの関係について論じている。質というのは主に心理的な現象であって、それが物理的な現象である量と混同されることへの批判が展開される。第二章は「意識の諸状態の多様性(持続の観念)」と題して、意識の持つ独自の性格は持続の中で展開される多様性であると主張される。これに対して外的な現象は、均一的空間の中で展開される等質的なものであるとされる。第三章は「意識の諸状態の有機的一体化(自由)」と題して、自由の本質について議論される。自由は決定論者たちがいうような選択の可能性にかかわるものではなく、人間がその本来のあり方を貫くことにあると主張される。人間の本来のあり方とは、意識の直接与件としての直観に忠実なことである。この著作のなかでは、直観という言葉は表立って使われてはいないが、言っていることは、反省以前の直観の重視ということに尽きると思う。

そんなわけで、「意識の直接与件について」という原題の持つ意義が浮かび上がるわけである。意識の直接与件とは、反省以前の直観ということになるが、人間はこれに反省を加えることで、対象をその本来の姿においてではなく、抽象的な概念として捉えるようになる。それはそれで根拠のあることであり、その限りで必然的なことではあるが、問題はその概念的な捉え方を以て、人間の認識のすべてとすることにある。しかしそれでは、人間の認識のあり方が一面的になる。人間の意識には、概念的で普遍的な認識作用のほかに、反省以前の直感的な内容もあるわけで、それを無視することは、人間の人間としてのあり方を狭めるものである。人間の人間としてのあり方は、概念的で普遍的な認識と反省以前の直感的な知覚との両者からなっており、その両者にそれぞれ相応しい場所を見つけてやることが必要だ。ベルグソンの基本的な立場はそういうところにある。

概念的で普遍的な認識は、コミュニケーション上で欠かせないものである。それは言葉からなっている。言葉とは、人間同士のコミュニケーションを円滑にするためにあるものだ。それは対象の客観的な把握を目的としている。客観的な把握とは、どの人間にも共通する認識ということだ。一方、反省以前の直観は客観的な内容だけを含むものではない。それには主観的でコミュニケーションには馴染まないが、人間の生き方を豊かにしてくれるような内容が含まれている(たとえば芸術的なインスピレーションのような)。重要なのは、これら二つのいずれをも大事にすることだ。その二つの中でも、ベルグソンは直観のほうを第一次的なものとして一層重視し、反省を加えたあとの概念的な認識を派生的なものと見ている。それに対して主流の考えは、カントを典型として、概念的なものを重視し、直観を軽視する傾向がある。カントも無論直観を無視するわけではない。しかしカントが直観を論じるのは、概念的な認識の材料としてであって、直観をそのものとして重視するわけではない。だが直観にはそのものとして重視されるべき内容が含まれているとベルグソンは主張するのである。

概念的な認識は、対象を空間の中で位置づけて表象する。これに対して反省以前の直観は、持続としての意識の中で展開する。空間の中で展開される外延的な事物は量的に把握されることができる。これに対して持続の中で展開される意識の内容は、本来空間とは無縁であって、したがって量的なものではなく、質的なものである。ところが常識的な考えは、この質的なものを量的なものと置き換える。たとえば、感情の強さにも大きさがあるとするように。強さとは質にかかわるものであり、大きさとは量にかかわるものであって、この二つは根本的に異なったものであるにかかわらず、あたかも同じものとして捉えられる。その理由は、時間を空間化することにあるとベルグソンは言う。質とは持続としての時間の中で展開されるものだが、それが大きさという量に転化するについては、対象の異なった相貌を、同じ基準で比較する作用が介在する。その作用は、同じ平面でなされねばならぬ。こういうわけで、本来は持続する時間の中で順治展開されていくものを、同じ平面に並べ替えて比較する。つまり、この場合には時間が空間化されるわけである。空間化された時間の中でならば、本来別の時間に属していて比較できないものも、相互に比較されることができ、したがって量的に把握されることもできる。

このようにベルグソンの議論は、外延的な対象としての空間的な物質界と、内包的な世界としての意識の持続とを峻別し、その両者を混同しないように呼びかけるのである。つまり外的な物質世界と内的な精神世界とは別々のものであって、それを混同することは許されないというわけである。そういう意味ではベルグソンの議論は、デカルトの議論を20世紀に復活させたものといえる。デカルトは物質と精神とは全く異なる二つの実体であって、したがってそれらを混同することは許されないと言った。とはいえ、精神界と物質界に一定の対応関係があるのは否めないので、その対応関係を説明できる原理としてデカルトは神を持ち出した。神による予定調和があるおかげで精神と物質とは一定の対応関係を持つというわけだ。スピノザやライプニッツの議論も基本的には同じだとベルグソンは言う。

ともあれ、ベルグソンがデカルトにならって、精神と物質の二元論を主張したことは間違いない。精神には精神独自の世界があり、物質には物質独自の世界がある。精神の世界の本質は持続としての時間であり、物質界の本質は空間のなかで展開される概念的な世界だということにある。概念的なものには、人間にとって欠かせない要素、つまりコミュニケーション上の必要性というものを認めることが出来るが、そう認めたうえで、精神的な世界の独自性を大事にすべきであって、両者を混同したり、物質的なもので精神的なものを説明してはならない、とベルグソンは諌めるのである。

もっともベルグソン自身は、自分をデカルトの亜流だとは思っていないようだ。それどころかデカルトを厳しく批判しているくらいである。その批判は、デカルトが折角精神と物質との二元論を主張したにかかわらず、それを徹底せずに、実際の議論においては、精神的なものを物質的な原理で説明しようとしたことに向けられている。ベルグソンの理解によれば、デカルトは唯物論者ということになりそうである(デカルトの後継者としてのスピノザは、明らかに唯物論者であった)。それに対してベルグソンには唯心論者の面影を認めることができよう。少なくとも精神界の現象においては、ベルグソンは物質的な要素を徹底的に排除しようとつとめているように見える。

以上は、第二章までの議論を踏まえた批評である。ここまでの議論は要するに、精神と物質、時間と空間それぞれの相互関係についての議論だといえる。その議論は、以上二組の対立関係を同一化することへの批判に費やされている。とりわけ時間と空間を混同する考えについては、厳しく批判している。その例としてエレア派の詭弁についての批判があげられる。なかなか興味深い議論なので紹介しておこう。

エレア派のゼノンの詭弁は、時間と空間を混同することに基づいているとベルグソンはいう。ゼノンは、アキレスは永遠に亀に追いつけないというが、それは、空間は無限に分割できるという前提にもとづいている。無限に分割できるのであれば、アキレスは亀のたどった空間的な距離に追いつき追い越そうとしても、その距離は永遠に埋まらない。なぜなら亀は無限に少しずつ進むからだ。これは先ほども触れたように、空間の分割可能性を踏まえた詭弁だが、運動というものは不可分のものだというのがベルグソンの反論である。なぜなら運動とは持続のうちで行われるもので、その持続というものは分割不可能な一体のものだからだ。

ベルグソンは言う、「エレア学派の人たちの錯覚は、この不可分で独特な行為の系列をその根底に横たわる等質的空間と同一視することに由来する。この空間は任意の法則に従って分割も再合成もされうるので、彼らはアキレスの全体的運動をアキレスの歩みによってではなく、亀の歩みによって再構成することが許されると信じたのである・・・なぜアキレスは亀を追い越すことができるか。それは、アキレスの一歩と亀の一歩が運動であるかぎり不可分であり、そして空間であるかぎりその大きさが異なるからである」と。つまりエレア学派の人たちは、本来違った基準である空間と時間とをごちゃまぜにすることで、錯覚に陥ったというわけである。






コメントする

アーカイブ