ベルグソンの時間

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ベルグソンは、人間の精神の本質的なあり方を純粋持続としての時間性に求めた。ベルグソンはその思想を、学位論文「時間と自由」において展開したわけであるが、「物質と精神」において、更に徹底的な考察を加えた。その考察を通じて、時間というものが人間にとって持つ本質的な意義を明らかにしたのである。

時間性の本質は持続にあるというのがベルグソンの基本的な考えである。時間についての通俗的な考えは、現在を中心として、過去と未来とを連続したものではなく断絶したものとして捉える。過去は過ぎ去ったものとして現在とは断絶しているし、未来はいまだ実現していないものとして現在とは断絶している。それは現在を瞬間として捉え、時間を瞬間の合成されたものと考えることからきている。ところが時間というものは持続を本質とするものであって、持続の本質は連続性にある。過去は現在と断絶しているのではなく現在と接合しているのであり、未来は実現されつつある現在なのである。

ベルグソンのこうした思想は、人間の本質についての独特の考えに基づいている。アリストテレス以来、西洋哲学の伝統は、人間の本質的なあり方を観想的な思考に求めた。デカルトが「われ思う故にわれあり」というときの、「われ思う」は、あくまでも観想的な思考をさしているのである。それに対してベルグソンは、人間の本質的なあり方を行動に求めた。人間というものは、環境との関係において、環境から示された刺激に対して、相応の反応をすることで、適切な行動をするようにプログラムされている。それは動物が環境に対して適応するのと基本的に異なるところはない。ただ刺激と反応との関係が、より間接的に、より複雑になっているだけだ。その間接的で複雑な対応を思考が媒介している、というのがベルグソンの基本的な考えである。

つまり人間とは、現在において示された環境からの働きかけに対して、それへの適切な反応を、未来に向けて選択し行動するように出来ている。その未来への選択に当たって、過去が決定的な役割を果たす。過去は記憶という形で介在し、その記憶が現在の知覚と結びついて、未来に向って適切な選択を実現するのである。とすれば、人間にとっての時間とは、瞬間の合成ではなく、連続的なものであり、有機的に統合されたものだということになる。

ベルグソンにとっての過去は、現在と密接に結びついている。というよりは、現在と直接につながり、一体化したものである。現在と過去との違いは、現在が私に対して生き生きとしているものであって、私を行動に誘うものであるのに対して、過去にはそのような力がないということにある。だが現在の必要に迫られて、いつでも記憶表象という形でよみがえってくる。それは既に存在していないものが復活するということではなく、意識されていなかったものが意識化されるというのが相応しい。過去は意識されないで、無意識の底に沈んでいるだけで、いつでも現在になることが出来るのである。

一方未来は、私が行動を投げかけるものとして、直接現在と結びついている。私は現在において知覚したものをもとに、その知覚への反応を選択し、それを未来に向けて実現しようとするようにできている。私の行動が未来を切り開いていくのであって、その意味では、未来は私が創造するものである。未来が私を創造するのではない。

ハイデガーは、未来を人間の限界を画するものとして捉え、未来の視点にたって現在を解釈したのであるが、ベルグソンはそれとは逆の方法に立つ。未来は私の存在を意義付けるものというよりは、私の存在の積み重ねの結果というような位置づけである。私の存在を意義付けるのは、未来ではなく過去である。記憶としての過去が、未来へ向けての私の行動を規定する。私は未来によって現在を画されたという意味での未来の産物ではなく、記憶という形での過去の産物なのである。

ところで、ベルグソンのいう現在は、主観的な点としてではなく、一定の時間的な幅をもった持続として捉えられている。その持続の中で私の知覚は成立する。知覚には、過去の記憶が絡むし、また知覚への反応という形で未来へもかかわる。現在は孤立した主観的な点ではなく、過去及び未来とつながりあった持続である。そのことをベルグソンは、「『私の現在』と呼ぶところのものは私の過去に一方の足を残しつつ私の未来に他の一足を投じている」(高橋里美訳)と言っている。

現在を占めるのは、知覚の原初形態としての感覚である。その感覚は、ベルグソンにあっては物質の実在性の根拠となる。物質の実在性とは、感覚のもつ堅固な印象と異ならない。このように実在性を感覚と結びつけるのは、西洋思想の一つの流れであり、ベルグソン特有のものではない。その感覚のもつ堅固な実在性は、過ぎ去ったばかりの直接的過去にも残っている。というよりか、直接的過去は現在の直接的な延長として、現在と一体化しているのである。それは現在が瞬間ではなく、ある程度の持続の幅をもつことの現われである。

感覚は私の身体に根拠を持っている。わたしが対象を知覚(感覚)するのは、我々の身体を通じてであるが、我々のその身体は物質である。それゆえ感覚は身体の物質性に根拠をもつといえるのである。その物質的な感覚に、精神的なものとしての記憶が結びついて、知覚が成立する。知覚はだから、現在と過去との協働の結果であるとともに、瞬間的に実現するものではなく、ある程度の持続の幅の中で、生成するものなのである。生成とは時間的な現象だ。それに対して誕生あるいは出現と呼ばれるものは、非時間的なものである。

以上の議論を単純化すると、次のようなことになろう。「人々は勝手に現在を定義して存在するものとなすのであるが、現在は単に生起しつつあるものである・・・実際的には我々は唯過去のみを知覚しているのであって、純粋なる現在は未来に食い入る捕捉しがたき過去の進行である」






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