小箱:小川洋子を読む

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タイトルにある「小箱」とは、死んだ子どもたちの思い出が詰まった箱のことである。ただ思い出だけではない、死んだ子どもたちはそこで生き続けているのだ。無論、死んでしまっているわけだから、現実の生命を生きているわけではない。かれらが生きているのは、かれらの親であったり、親族であったり、かれらと深いかかわりをもった人々の心の中である。この小説は、そんな、死んだものと生きているものとの、心のつながりをテーマにした作品なのである。

小川には、なにかに取り付かれた人を主人公にした一連の作品がある。前作の「ことり」では、小鳥に取り付かれた人が主人公になっていた。その主人公は、小鳥を介して世界とかかわっていた。だから、小鳥のいない生活はありえない。この主人公にはいつも小鳥が身の回りにいて、それらに励まされながら生きている。しかし、ある日、小鳥を束縛することのむごさに気づき、小鳥は自由に生きるべきだと考えるようになる。小鳥を自由にさせるということは、小鳥を自分の生き方に巻き込まないことを意味する。だからかれは、小鳥を解放することが、自分の小鳥からの解放でもあるかのように、静かに死んでいったのである。

このように「ことり」は、死に向って歩む人を描いていた。それに対して「小箱」は、死んでしまった人にまつわる話である。死んでしまったのではあるが、それは肉体として死んだということであって、精神的にはまだ生きている。もっともそれは、他の人の心の中で、という意味だが、その人と心でつながっている限りは、死んでしまった人も生き続けることができるのだ。

だからこの小説は、宗教的な雰囲気をたたえている。それも熱い信仰ではなく、静かな諦念のようなものだ。宗教というと、一神教がモデルとなり、いかめしい父権主義のようなものを感じさせるが、この小説の中の宗教的な雰囲気はそれとは縁がないといってよい。それは死者に対する敬愛という形をとる。だから、超越的な第三者としての神は出て来ない。神という言葉さえ出て来ない。小川の宗教意識には、神という要素はないといってよい。あるのは、死者への限りない敬愛である。その意味では小川は、日本人の普通の宗教意識を受け継いでいるといってよい。日本人の宗教意識は、柳田国男が言ったように、先祖崇拝を基本にしたものであり、アニミズム的なものである。

さて、その小箱であるが、それはガラスで出来た人形ケースほどの大きさのもので、人々はその中に、幼くして死んだ自分の子どもの形見を収めている。単に形見というのではない、それは死んだ子どもの代わりに生きつづけている依りしろのようなもので、成長もする。親は節目ごとにその子の誕生日を祝ってやったり、入学式のお祝いをしてやったり、大人の年齢に達すれば、結婚を祝ってやったりする。もっとも配偶者は架空の人であるが。

そのガラスケースは、ある町の博物館の陳列ケースだったものを再利用したものだ。その博物館はとっくに閉鎖されて、建物は荒れ放題に放置されているのだったが、そこに残されていたガラスケースを子どもの第二の生活の拠点として再利用しているのだった。そのガラスケースは、これも廃止され荒れ放題になった元幼稚園の講堂の一角に保存されていた。その元幼稚園には、この小説の語り手の女性が住んでいて、ガラスのケースを守る一方、それらを訪ねてくる人々を案内することに従事しているのだ。彼女がどういういきさつから、元幼稚園に住み込んでガラスの小箱を守るようになったか、詳しいことは語られていない。

表立って語られていることにはいくつかある。まず、語り手の協力者となって、小箱をめぐるさまざまな仕事をこなす一方、恋人から来た手紙を語り手に解読することを依頼するバリトンさんという青年。バリトンさんとは彼のあだ名で、バリトンの声で歌うように話すことから、そうあだ名された。その彼が語り手に持ってくる手紙は、文字が何重にも重なりあい、したがって文面が真っ黒になって、普通の視力では読み取れないのだった。その手紙を書き続ける限り恋人は生きている。手紙を書き終えたときに、恋人は静かに死ぬのである。その恋人のあとを、語り手が埋めてやる。彼女は、かつての恋人に代わってバリトンさんを愛するようになるのだ。

もう一人重要な人物として、語り手の従姉がいる。彼女は息子を亡くしたあと、歯科医院の敷地の一角に立つ小屋で一人暮らしをしている。彼女も息子の思い出を小箱の中に収めている。また、息子の遺骨で作ったイアリングを両耳につけている。このイアリングは楽器の機能を果たすことができる。他の人達も自分なりにその楽器のイアリングを持っていて、節目の折に丘の上に集まって、その楽器を奏でて音楽会を催すのだ。もっとも楽器の音が聞こえるのは、そのイアリングをしている当人だけで、したがって一人だけの音楽会などと呼ばれている。

博物館や幼稚園がかつてあった町は、いまでは死者のための町であるかのように静まり返っている。その静かな雰囲気の中で、語り手や他の人々が心を触れあわせながら暮らしている。小川の小説には、ごく普通の人達が静かに暮す様子を描くものが多いのだが、この小説はその典型といってよい。かれらには、生きるとはなにか、といった大げさな問題意識はないし、また、日頃の生活ぶりを乱されるような異常な事態も起こらない。毎日はそれぞれ前日の繰り返しといったふうに、何らの変化も感じさせない生き方である。そういう生き方を、こだわりをもって描くのが、小川の小説の最大の特徴といってよい。

小説で唯一大きな出来事として描かれるのは、丘の上で開かれる「一人の音楽会」である。そこに、小箱の持ち主たちが、それぞれ自分の楽器イアリングをつけて集まってくる。これまで参加したことのない語り手の従姉も参加する。彼女はその直前に、大人の年齢になった自分の息子のために結婚式を祝ったばかりであり、そのときの高揚感に促されるように音楽会に参加したのだった。彼女は脚が悪いために自力では歩けない。そこでバリトンさんが彼女を背負って丘の上に上ってゆく。

その丘の上には一陣の西風が巻き起こり、イアリングを揺らして楽器の音を奏でさせる。その折の様子が、小川独特の美しい文章で描写される。

「束の間気配を消すことはあっても、丘の斜面で、林の奥で、空の高いところで、西風は吹き続けていた。見上げるたび、流れてゆく雲が夜空に描き出す濃淡の模様は移り変っていた。枝のしなる音がして、鳥が飛び立ったのかと振り返っても、必ずそれは風の仕業だった・・・楽器がいくつもいくつも、揺らめいていた。人の輪郭はあやふやでも、耳元のその揺らめきだけは確かにそこにあり、たった一人のための音色を響かせていた。素朴なセロファンのラッパがあった。ガラス瓶に入った体の欠片があった。虫歯屋さんが削り、元美容師さんが手入れをした竪琴があった」

この部分に限らず、この小説全体が、このように叙情的でありながら、透明な文体で書かれている。





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