崩壊の美学:桐野夏生「OUT」

| コメント(0)
小説「OUT」のクライマックスは、主人公の雅子が宿敵佐竹と壮絶な戦いを繰り広げ、勝ち残るところを描く。勝ち残ったことで彼女を待っていたのは、しかし、深刻な喪失感だった。猛獣に追われる小動物のように、必死になって逃げたあげく、ついにつかまって食われようかというところで、奇跡のような逆転を演じて生き残ったのだから、充実感とは言わないまでも、安堵感くらいは得てしかるべきなのに、かえって喪失感を覚える。それはなぜなのか。そこがこの小説のミステリアスなところだ。

雅子は佐竹の毒牙にかかって殺されようという前に、佐竹によって丸裸にされ、寒気に震えながら強姦される。彼女は夫との関係が破綻して長い間セックスから遠ざかっていた。だから身体が激しく反応した。それは雅子の肉体が待ち望んでいた快楽をもたらしてくれたのだ。もし自分の意思でその快楽を得たのなら、雅子は深い充実感を味わったに違いない。だが、強姦された。それなのに、思いがけない快楽を得た。その快楽が、佐竹に対する雅子の気持を変化させたようなのだ。雅子は、それまでの経緯を棚上げして、この男となら一緒に生きていけると直観した。その直観は、彼女の意識からというよりは、身体から生まれてきたようなのだ。

佐竹の方といえば、かれが雅子を強姦するのは、自分なりに快楽を追及してのことであった。佐竹は以前女を殺したことがあった。その女は殺される前に激しく抵抗した。その抵抗が佐竹の性欲を激しく刺激した。その抵抗を楽しみながら佐竹は女をいたぶり、ずたずたにしながら、女の肉体を強姦した。それ以来佐竹は、普通の女では燃えなくなってしまっていた。雅子なら、そんな自分を奮い立たせ、もう一度快楽を与えてくれるかもしれない。その快楽は、単に雅子を抱くことでは得られない、以前の女のように、雅子の肉体をずたずたに切りさいなみ、その憎しみを一身に浴びないことには、自分の性欲を奮い立たせることが出来ない。佐竹の雅子との性交は、だから死の交わりでしかありえなかったのだ。

要するに佐竹は異常性欲者なのである。その佐竹の異常性欲に、雅子のほうも反応し、かれを求める気持が生まれた。普通の感覚では理解しがたいことだが、それは知性による判断なので、肉体は別の判断をするのかもしれない。雅子は久しぶりに性的な高揚感が自分の内部から生じてくるのを感じた。その感じがよかったので、佐竹への欲望が噴出してきたのだろう。

しかし雅子がそんな気持になったのは、佐竹に致命傷を負わせた後のことである。その直前まで雅子は、必死に生きることだけにとらわれ、佐竹に対する感情はほとんど無色だったといってよい。憎しみの感情さえなかった。なんとかして生き残るためにはどうしたらよいか、そのことばかりが意識を占めていたはずである。佐竹のほうは、不覚にも雅子に殺されるハメになってしまったが、かれはそれを後悔しなかっただろう。自分が生き残っても、あとには死ぬことくらいしかありえないのだから、雅子に殺されて、むしろよかったはずだ。

こんな具合にこの小説は、奇妙な男女の意外な愛をテーマにしているように見える。男のほうは、性的な快楽のためならば滅びてもよいと思っているし、女のほうは人生に絶望している。絶望はしているけれども、性的な快楽にはひかれる。その快楽は、日常性の中からは得られない。命をかけることで初めて得られるテイのものだ。彼女は、快楽を得るつもりで自分の命を危険にさらしたわけではなかったが、その危険に落ちた自分が思いかけず性的快楽を獲得した。できればそれを手放したくなかった。彼女の下半身が佐竹を求めさせたのだ。もっともその望みはかなわず、佐竹は死んでしまう。自分が殺したのだから、いかんともしようがない。

そんな雅子と佐竹の感情を、この小説は巧妙に浮かび上がらせている。この小説は様々な人物を登場させ、その人物に感情移入するような視点から物語を展開していく。とくに後半部に入ると、登場人物の考えなり感情がリアルに伝わってくるように書かれている。佐竹の感情は佐竹から直接伝わってくるし、雅子の感情は雅子から直接伝わってくる。同じ事態に対して、かれらがそれぞれ感じ取るものは異なっている。その異なった感情が立体的に浮かび上がってくるように、作者は人物たちをタイミングよく登場させ、それぞれの視野から語らせている。最後の場面などは、佐竹による雅子への虐待を、佐竹の視点からと雅子の視点からと双方から語らせることで、全体の状況が立体的に浮かび上がるように工夫されている。その辺のテクニックは、フォークナーに倣っているようだ。

小説は四人の女を中心に展開していく。にもかかわらず、比較的早い時期に佐竹を登場させている。それは妻に殺された山本との接点としてであると、とりあえず読者に思わせるためなのだが、実は佐竹と雅子とが宿命的に結びついていることを語っているのである。その佐竹は、当初は、自分に罪をかぶせて自分たちは無事でいる連中が許せなくて、復讐するつもりで女たちに接近したのだったが、雅子という女を詳しく知るに及んで、彼女を以前の女の代用として、激しい性的快楽を得たいと思うようになっていく。雅子によって、自分の内部の魔性を呼び起こされたわけである。その魔性は、小説の叙述からして、ある種のサディズムなのだろう。だからこの小説は、サディズムの一サンプルといえる。だが雅子のほうは単純なマゾヒズムではない。彼女は精神的に佐竹に屈服したわけではなく、自分の身体が佐竹の身体を通じて解放されることを望んでいるだけなのだ。

だが佐竹が死んでしまっては、その望みがかなうことはない。小説の最後は、そんな雅子の残念さを次のような言葉で表現している。「背中でドアが閉まったのなら、新しいドアを見つけて開けるしかない」

こんなわけで、これは実に不道徳な小説である。





コメントする

アーカイブ