通天紅葉図:富岡鉄斎の世界

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富岡鉄斎は、明治九年(1876)に和泉の大鳥神社の大宮司に任命され、その復興に尽力した。荒廃した神社の復興には多額の費用が必要だったので、鉄斎はその足しにしようとして絵を売るようになった。

明治十四年(1881)、兄の敬憲が死去したので、母親の面倒をみるために、京都の実家に戻った。「通天紅葉図」と題するこの絵は、明治十五年の作品。京都東山にある東福寺を訪れ、紅葉狩りをした際の印象を描いたものである。

東福寺は、室町時代に多くの画僧を輩出したところで、南画の一大拠点として栄えた。鉄斎はその南画を学ぶつもりで、東福寺に行ったのだろう。その際に、南画を鑑賞するかたわら、折からの紅葉を楽しんだのではないか。

この絵は、通天橋の周囲に植えられた楓の紅葉を描いたものだ。通天橋は、東福寺の本堂と普門院なる塔頭を結ぶもので、小生も行ったことがあるが、深い谷をまたぐ形になっており、その谷に沿って夥しい数の楓が植えられている。その楓の林が、秋には鮮やかに色づき、永観堂とならんで、京都の紅葉の名所となっている。

賛には、杜牧の詩「山行」のあとに、売茶翁の詩を三首記している。売茶翁は肥後出身の隠士で、この通天橋のたもとで茶を売っていたという。

(1882年 絹本着色 138.4×55.0cm 宝塚市、清荒神清澄寺)





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