不安と欣求<中国浄土>:仏教の思想⑧

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「仏教の思想」シリーズ第八巻は、「不安と欣求<中国浄土>」と題して、中国における浄土信仰を取り上げている。担当は浄土教研究の第一人者塚本善隆と哲学研究家の梅原猛。塚原が中国浄土教の歴史的な展開を俯瞰し、梅原が日本の浄土諸宗に直接影響を与えたとされる曇鸞、道綽、善導の思想を解釈している。そのうえで、浄土をユートピアと位置づけての両者の対談がさしはさまれるという体裁になっている。

まず、塚原による中国浄土教の展開についての解説。日本の浄土教の関係者は、曇鸞に始まる法系を重視し、それに先立つ慧遠とか、更にそれ以前のインドにおける動きには殆ど関心を示さないが、塚原はインドに遡って浄土教の歴史をひもとく。インドに大乗仏教の動きがおこったのと平行して、浄土信仰も生まれたが、それが広範な影響を及ぼすことはなかった。ただ、浄土信仰というものが種火となって、後に浄土教を燃え上がらせたという理解のようである。その場合、仏像の成立という事件が、浄土教の核心である浄土信仰に大きな影響を与えた。インド仏教にはもともと仏像というものは存在せず、釈迦の骨を納めた塔(ストゥーパ)が信仰のシンボルとなっていたのだったが、仏像が作られることを通じて、信仰の対象が具体的なイメージを伴うことで、庶民の間に仏教信仰が広がっていった。その際に、仏像が体現する仏と、その仏がいますとされる浄土への信仰も広がったという。インドに仏像が成立するのは紀元一世紀半ばのことだから、大乗仏教の興隆とほぼ重なっている。そんなことからも、インドの浄土信仰は非常に古い紀元をもつということらしい。

中国浄土教の祖と呼ばれる慧遠は、紀元四世紀、南北朝時代の東晋の頃に活躍した人だ。鳩摩羅什とほぼ同時代人で、羅什から般若経の思想を学ぶ一方、それを基礎としながら、「般舟三昧経」によって浄土信仰を確立したとされる。彼は浄土信仰に基づく念仏結社をつくり、その結社を中核として、浄土信仰を広めていった。その結社を白蓮会といい、慧遠の浄土教を白蓮教といったりする。中国の歴史でたびたび民衆蜂起を起したことで、日本の浄土真宗と似ているところがある。

慧遠の浄土教は、徹底した自力信仰だったので、他力信仰である曇鸞の浄土教の法系やそれを受け継いだ日本の浄土教とは異なっている。共通するところは、あの世としての浄土を信仰するという点及び念仏によって浄土に生まれるという信仰を抱いているところである。その念仏も、曇鸞以降は、阿弥陀の名号を称えるという意味になったが、慧遠においては、文字通り心に仏を念ずることを意味していた。

日本の浄土教の直接の先駆者たる曇鸞以後の法系は、上述したとおり、専修念仏と他力救済を宗旨としている。曇鸞、道綽、善導の関係は、曇鸞が念仏と他力信仰としての浄土教を確立し、道綽が末法思想を浄土信仰に結びつけ、浄土への民衆の憧れに強固な支点を与え、善導が浄土信仰を広く民衆のものとしたということになろう。

まず、曇鸞。かれは南北朝時代の末期から隋の時代にかけて、山西省を拠点にして活躍した。南北朝時代末期の山西省においては、北周による廃仏と、隋による興仏とが前後し、仏教者としては試練に満ちた時期であった。隋の時代には仏教全般が優遇されたが、その中でも天台宗の法華信仰が重視された。法華信仰には観音信仰というものが付随しているが、その観音信仰が浄土信仰への橋渡しをした側面もあるといわれる。観音菩薩はもともと阿弥陀仏とは無関係だったのが、そういう事情から強く結びつき、いまでは観音菩薩は勢至菩薩と並んで阿弥陀仏の脇時とされている。

慧遠が「般舟三昧経」を信仰の拠り所としたのに対して、曇鸞は浄土三部経を拠り所とした。とくに「無量寿経」を重視し、阿弥陀の本願による他力信仰を前面に押し出した。そういう点で、曇鸞は日中にまたがる浄土信仰の直接の教祖といってよい。日本の親鸞は、その曇鸞と世親から一字ずつとって自分に名づけたのである。世親は唯識思想の確立者であるが、浄土教の教祖にも含まれると考えられていた。

道綽は、紀元562年に、曇鸞と同じく山西省に生まれた。かれは末法思想を強調し、それをバネにして浄土信仰を広めた。その背景には、戦乱で疲弊した時代の悲惨さがあった。その悲惨さが、仏教の末法思想に強い現実感を与えたのだと思う。かれも浄土三部経を重視したが、とりわけ「観無量寿経」を重視した。「観無量寿経」は、末法時代における悪人を描いているが、その悪が栄える現世と比較しての浄土のすばらしさが歌われており、浄土教の特徴である「厭離穢土欣求浄土」の思想が色濃く出ているものである。

善導は、紀元613年に生まれ、道綽に師事した。その後都長安に出て、そこを根拠に布教活動をした。35歳ころのことだというから、650年前後、唐がもっとも勢いのある時代である。その頃の唐は世界都市として、あらゆる国の富や文化が集まっていた。そんな中で、仏教も栄え、とくに華厳宗や禅宗が栄えた。そうした唐の都長安にあって善導は浄土教の教えを広めたのである。

善導の教えは、道綽の教えを踏まえたものであり、専修念仏と他力信仰を一層つきつめたものだった。人間が救われるのは、阿弥陀仏の本願によるものであって、人間はただひたすら阿弥陀の名号を称えることで救済されることを願うべきである。絶対に自分を恃むようなことをしてはならない。そういう他力信仰のあり方を強調したものに、「二河白道」の喩えがある。これは二つの大河にはさまれ、悪鬼に迫られるという絶体絶命のシチュエーションに陥って、阿弥陀をひたすら信頼すれば、おのずから窮地を脱することができると説いたもので、他力信仰の特徴をよくあらわしているものである。

以上、唐の初期に完成された浄土教の教えは、平安時代の半ば頃に日本にも紹介され、宇治平等院や平泉の中尊寺などの浄土芸術を花咲かせ、やがて鎌倉時代になると、法然、親鸞、一遍といった宗教指導者を生み出すのである。






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