妄想気分:小川洋子のエッセー集

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「妄想気分」は、小川洋子の何冊目かのエッセー集である。同時代の日本人作家としてよく比較される多和田洋子が、ごくわずかなエッセー集しか出していないのに対して、小川は結構な数のエッセー集を出している。その全部に目を通したわけではないので、彼女のエッセー集の傾向をわかっているわけではないが、この「妄想気分」は、自分の創作態度とか自作への言及が多く、また自分自身を回想する文章も多かったりして、いわば自分を語る本という体裁である。

タイトルの「妄想気分」は、どうやら彼女の創作の際の気分を言い表しているようである。自分の場合、妄想から作品が生まれる、というようなことか。作家には、予め綿密に構想された細部を忠実に再現するタイプと、おおまかなイメージをもとにして、その時の勢いで文章を展開させていくタイプとがある。前者を、考えたあとで書くタイプ、後者を書きながら考えるタイプとすれば、小川は書きながら考えるタイプの典型ということだろう。書き進んでいくうちに、頭のなかに妄想が広がっていく。その妄想を文章に置き換えているうちに、いつのまにか一編の小説が出来上がっている、そんなイメージになるのではないか。

そのことを小川は、「最初から整理整頓された小説は面白くない」と言っている。この「最初から整理整頓された小説」というのは、書く前に全体構想をはじめ細部にいたるまで計算されつくしている小説と言ってよい。考え抜かれた上に書かれた小説ということである。そういう小説は面白くないというのは、小川の僻事のようなもので、世の中には、そうした「整理整頓された小説」が得意な作家は沢山いる。むしろそういうタイプの作家のほうに、世界の文学史上傑作と呼ばれる作品を書いた者が多いのではないか。

妄想から生まれる小説にも無論面白くて人を唸らせる作品はある。村上春樹などは、やはり書きながら考えるタイプの作家として自己認識しており、自分はおおまかなイメージだけで小説を書き始め、書きながら、その時の勢いで思いがけぬ方向へ逸脱することもあるというようなことを言っている。論理を生命とする文章、たとえば科学論文などは、綿密な構想に基づいて書かれる必要があるが、小説のような文学作品は、かならずしもそうではない。書いているときの勢いが小説の生命の源泉となることもある。

このエッセー集を読んでいる限り、小川は夜から深夜にかけて執筆するタイプらしい。妄想が生まれやすい時間帯である。その妄想を求めて深夜に執筆するようになったのか、あるいは深夜に執筆することで妄想と親縁な関係になったのか、その因果関係はあまり明らかではないが、もし小川が朝型人間で、朝早くから執筆するのを習慣としていたら、また違ったタイプの作家になっていたかもしれない。村上春樹などは、執筆は朝から昼にかけて行うといっているから、小川と同じく書きながら考えるタイプではあるが、おそらく妄想とは無縁だと思う。

その村上の、小川は早稲田の後輩だ。村上はほとんど大学に通っていなかったといい、大学生活が自分の人生に及ぼした影響は無に等しいらしいが、小川のほうは、早稲田に愛着が深いらしい。もっとも卒業以来一度も早稲田を訪れたことはないという。それでも早稲田に愛着を感じるのは、「学びたい意欲のある学生にはいくらでもチャンスを与えるという底知れない包容力」を早稲田が感じさせたということらしい。

小川が学生時代に下宿していたのは、武蔵小金井にある学生寮で、おそらく短編小説「ドミトリイ」の舞台となったところだと思うが、そこからなら早稲田には楽に通えるはずだ。その学生寮では、四人の女子学生と同居していて、それなりに楽しかった様子が語られる。しかし小川が生涯の友として仲良くなったのは別の女子学生で、その友人とはずっと親密な付き合いをしているという。その付き合いというのは、ちょっと人と話してみたくなったときの話し相手であったり、ほんのつまらぬことでも相談に乗ってくれる気安さと結びついているという。そういう気安さは、男同士の付き合いには全くないといってよい。男同士の間には、どんなに親密な間柄でも、親しき中にも礼儀あり、といった、一線を画することろがある。男の友情なんて、頭の表面に成り立つもので、心の内部には踏み込めないという悲しさがある。

この本でも、好きな作家への言及がある。小川は、「心と響き合う読書案内」のなかで、感動した小説やその作家を取り上げていたが、その40人ほどの作家から、この本でも重ねて取り上げているのは田辺聖子と內田百閒だ。田辺聖子は、作家としての自分の目標のような存在だったようだ。小生は田辺を読んだことがないのでなんともいえないが、筋の面白さより、人間同士の心の触れ合いなど、雰囲気を大事にする作家だったらしい。小川にもそうした傾向が指摘できる。一方內田百閒は郷土の先輩として親近感を抱いているようである。内田は気骨ある言論人であり、日本の近代史にも大きな存在感を放つ人だが、小川はそうした面よりも、目的を持たない鉄道の旅が好きだった百閒の飄々とした人柄に愛着を感じるらしい。

このエッセー集を読んでいて一つ気になったのは、「私の何々」という言い方が目立ったことだ。これは女性に共通の傾向なのか、それとも小川に固有の特徴なのか、俄には談じられないが、読む人によっては抵抗を感じるかもしれぬ。





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