能「恋重荷」

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NHKが定例の番組で能「恋重荷」を放送した。老人の失恋をテーマにしたものだ。身分の低い、しかも老人が身分の高い女性に恋をして、失恋するというのは、いかにも能らしい話で、現実味の高い文芸ではあまり例を見ないだろう。一応世阿弥の作品ということになっているが、世阿弥はすでに存在していた「綾の太鼓」という曲をもとにこれを作ったという。同じような内容の能に「綾鼓」があり、これは作者不明だが、やはり「綾の太鼓」を原作としていると考えられる。「綾鼓」は、自分を悩ませた女を徹底的に責めさいなむのに対して、この「恋重荷」は、死んだ老人の幽霊が恨み言を述べたのちに、女の守護神になることを約束するという趣向になっている。

観世流による現行曲の演出は非常にあっさりしたもので、老人は幽霊となっても女御をあまり責めず、すぐに打ち解けて守護神になることを約束する。したがって、全体として迫力にかけるきらいがある。この日の舞台を演じた大槻文蔵は、それを物足りなく感じ、老人の恨みをもっと迫力のあるものにしたうえで、それにもかかわらず女御を赦すという心の揺らぎを強く表現したいとして、脚本を多少いじったそうである。この日の放送では、脚本の専門家も登場して、どの点をいじったかについて説明していた。能には昔から、小書きと言って、演出に多少のバリエーションを認める伝統があるので、これくらいの変更は大目に見てもらえるということらしい。

舞台にはすでに、恋の重荷の作り物が置かれ、女御が脇座に控えている。そこに脇が登場して、老人が女御に身分違いの恋をしているので、ちょっとからかって凝らしめてやろうという旨の口上を言う。これは普通の演出ではないことだが、全体の進行を劇的にみせるために取り入れたと脚本家は説明していた。以下、テクストは「半魚文庫」を活用する。このテクストは、標準的なものである。

女御は白河院に使えている。その白河院の臣下が、山科の荘司が女御に恋をしているらしいから、その本意を訪ねるべく、ここに呼びだせと相狂言に命じる。

ワキ詞「抑もこれは白河の院に仕へ奉る臣下なり。さても我が君菊を御寵愛あつて。毎年数多の菊を植ゑ育てられ候。又こゝに山科の荘司とて賎しき者の候。いつも菊の下葉を取らせられ候ふ間。申附けばやと存じ候。又承り候へば。彼の者いかなるをりにか。忝くも女御の御姿を拝み申し。勿体なくも恋となりたる由承り候ふ間。彼の者を召出し尋ねばやと存じ候。いかに誰かある。
狂言「御前に候。
ワキ「山科の荘司に此方へ来れと申し候へ。
狂言「畏つて候。いかに山科の荘司の渡り候ふか。

狂言に呼ばれた山科荘司が、舞台に登場する。面は阿古父尉、髪はざんばらの藁の作り物である。衣装は渋い柿色の作務衣。この曲は、後シテより前シテのほうが印象的である。

シテ詞「誰にて渡り候ふぞ。
狂言「急ぎ御参りあれとの御事にて候。
シテ「畏つて候。
ワキ「いかに荘司。何とて此間は御庭をば清めぬぞ。
シテ「さん候この程所労仕り候ひて。さて怠り申して候。
ワキ「尤もにて候。さて汝は恋をするといふは真か。
シテ「さやうの事をば何とて知し召されて候ふぞ。
ワキ「いや/\はや色に出でてあるぞとよ。さる間此事を忝くも女御聞し召し及ばれ。急ぎ此荷を持ちて御庭を百度千度まはるならば。其間に御姿を拝ませ給ふべきとの御事なり。なんぼうありがたき御諚にてはなきか。
シテ「何と此事を聞し召し及ばれ。其荷を持ちて御庭を百度千度まはれとかや。百度千度とは。百度も千度も持ちて廻らば。其間に御姿を拝まれさせ給ふべきと候ふや。
ワキ「げによく心得てあるぞ。なんぼうあり難き御事にてはなきか。
シテ「さらば其荷を御見せ候へ。
ワキ「此方へ来り候へ。これこそ恋の重荷よ。なんぼう美しき荷にてはなきか。
シテ「げに/\美しき荷にて候。たとひ適はぬ業なりとも。仰ならばさこそあるべけれ。ましてやこれは賎しき業。さのみは隔てじ名を聞くも。
地次第「重荷なりともあふまでの。重荷なりともあふまでの。恋の持夫にならうよ。

恋の重荷を持って何度も庭を往復すれば、その間に女御が姿を見せてくれるというので、老人は喜んで重荷を重荷を持とうとするが、重くて持ち上がらない。大きな岩を布に包み、軽いように見せかけているだけで、老人にはとても持てないのだ。

シテ「誰踏み初めて恋の路、
地「巷に人の迷ふらん。
シテ「名も理や恋の重荷。
地「げに持ちかぬるこの身かな。
シテ「それ及び難きは高き山。思ひの深きは渡津海の如し。
地「何れ以てたやすからんや。げに心さへかろき身の。塵の浮世にながらへて。よしなく物を思ふかな。
ロンギ上「思やすこし慰むと。露のかごとを夕顔の。黄昏時もはや過ぎぬ。恋の重荷を
持つやらん。
シテ「おもくとも。思は捨てじ唐国の。虎と思へば石にだに。立つ矢の有るぞかし。いかにも軽く持たうよ。
地「持つや荷前の運ぶなる。心ぞ君がためを知る。重くとも心添へてもてや。重くとも心添へてもてや。。
シテ「よしとても。よしとても。此身は軽し徒らに。恋のやつこに成り果てゝ。亡き世なりと憂からじ。
地「なき世になすもよしなやな。げには命ぞ唯頼め。
シテ「しめぢが腹立ちや。
地「よしなき恋を菅筵。伏して見れども。寝らればこそ。苦しや独寝の、我が手枕の肩かへて。持てども。持たれぬそも恋はなにの重荷ぞ。
シテ「哀てふ。言だになくは何をさて。恋の乱の。束緒も絶え果てぬ。
地「よしや恋ひ死なん。報はゞそれぞ人心。乱恋になして思ひ知らせ申さん。

いくらやっても持ち上がらなないので、老人は絶望し、ついに息絶えてしまう。

中入。老人が舞台からさると、間狂言が出てきて、これまでのいきさつを語ったうえで、これはただ老人をからかうつもりだったのが、その老人が思いがけず死んでしまい、実に心苦しいことだと語る。老人の死を聞いたワキは、ちょっとやりすぎだったと反省し、死んでしまった老人の幽霊にせめて姿を見せたあげなさいと女御に勧める。女御は庭へ出て、重荷に触ったり強いながら、老人の気持ちに思いをはせる。

ワキ詞「何と荘司が空しくなりたると申すか。言語道断近頃不便なる事にて候ふぞや。総じて恋と申す事は。高き賎しき隔てぬ事にて候へどもさりながら。彼の者の恋の心を止むとの御方便にて。重荷を作つて上を綾羅錦繍を以て美しく包みて。いかにも軽げに見せて持たせなば。彼の者思はんには。かほど軽げなる荷なれども。恋のかなふまじき故に持たれぬぞと心得。恋の心や止まるべきとの御事にて候ふ所に。賎しき者の悲しさは。是を持
ち御庭を廻らば。御姿をまみえさせ給はん事を悦び。精力を盡し候返す返すも不便にこそ候へ。此由を申し上げうずるにて候。いかに申し上げ候。山科の荘司重荷を持ちかねて。御庭にて空しくなりて候。かやうの賎しき者の一念は恐しく候。何か苦しう候ふべき。そと御出あつて。彼の者の姿を一目御覧ぜられ候へ。
ツレ「恋よ恋。我が中空になすな恋。恋には人の。死なぬものかは。無慙の者の心やな。ワキ詞「これは余りに忝なき御諚にて候。はや/\立たせおはしませ。
ツレ「いや立たんとすれば磐石におされて。更に立つべきやうもなし。
地「報は常の世のならひ。

老人の幽霊が出てきて、まずは女御のつれなさに苦言を呈す。後シテは白頭の悪尉面である。

後シテ出端「吉野川岩きり通し行く水の。音には立てじ恋死し。一念無量の鬼となるも。唯よしなやな誠なき。言よせ妻の空だのめ。
地「げにもよしなき。心かな。
シテ「浮寝のみ。三世の契の満ちてこそ。石の上にも坐すといふに。われはよしなや逢ひ難き。厳の重荷持たるゝものか。あら。怨めしや。葛の葉の。立廻 玉襷。畝傍の山の山守も。
地「さのみ重荷は。持たればこそ。
シテ「重荷といふも。思なり。
地「浅間の煙。あさましの身や。衆合地獄の。おもき苦。さて懲りたまへや懲りたまへ。

老人の苦言はあとをひかないあっさりとしたもので、これからはあなたの守護神となってお守りしようという。葉守の神という。

地「思の煙立ち別れ。思の煙立ち別れ。稲葉の山風吹き乱れ。恋路の闇に迷ふとも。跡弔はゞその怨は。霜か雪か霰か。終には跡も消えぬべしや。これまでぞ姫小松の。葉守の神となりて。千代の影を守らんや。千代の影を守らん。

こんな具合に、老人の恋ということもあって、かなりあっさりとした展開である。






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