梅原猛の親鸞論

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梅原猛が親鸞を、その生き方と思想の両面から考察しているのは、増谷文雄と同じである。ただその視点は梅原らしくユニークだ。増谷はオーソドックスなやり方で親鸞の生涯を振り返り、それを踏まえて著作活動の展開や、そこに盛られた親鸞の思想を追っていくという方法をとっている。それに対して梅原は、親鸞の生き様を聖徳太子と関連付け、親鸞の思想については、「歎異抄」や晩年の著作ではなく、関東時代の「教行信証」をもとに考察している。切り口が狭いのである。

親鸞の生き様の特徴を単純化して言えば、肉食妻帯ということだろう。仏教者にとっては無論一般庶民にとっても、坊主が肉食妻帯することは単にスキャンダラスであるのみならず、仏教の教えを否定するようなものだった。それを親鸞はあえてして、隠そうとしなかった。親鸞の妻としては恵信尼が有名であり、彼女は親鸞のために四男三女を生んだというが、親鸞は、彼女のほかにも複数の妻をもったらしい。これは好色でなければ考え難いことだ。おそらく親鸞には好色なところがあったのだろう。だがその好色を前にして開き直るわけには行かなかったのだろう。何らかの形で合理化しなければならない。その合理化の手立てを親鸞は聖徳太子に求めた、というのが梅原の見立てのようである。つまり親鸞は自己の肉食妻帯を合理化するための導きの糸として聖徳太子を持ち出したわけだが、それだけではあまりにも露骨なので、聖徳太子に宗教的な後光をかぶせねばならなかった。その後光とは、阿弥陀の光である。親鸞は、聖徳太子を阿弥陀信仰の布教者として位置づけ、その阿弥陀信仰に導かれて肉食妻帯をしたのだというふうに自分の生き方を合理化した、と梅原は言うのである。

聖徳太子と阿弥陀信仰の結びつきは、いかにも梅原らしい説明である。梅原らしい、というのは、実証的な根拠を示さずに、推測だけで論断するという意味だが、その独断も宗教という分野では大目に見られるべきなのかもしれない。

聖徳太子は、熱心な仏教理解者であったことはたしかであるが、自身はかならずしも宗教者とは言えなかった。それが、死後しばらくたって、宗教的な存在に祭り上げられるようになった。その転機になったのは、法隆寺の再建であった。最初の法隆寺は、太子一族の滅亡後焼失していたが、その後現在地に再建された。そのきっかけとなったのは、たたりへの恐れではなかったか。菅公信仰にもあるとおり、日本人には死者の怒りを恐れるとことがあった。その怒りをなだめるために、神社や寺院をたてて供養することが古来行われてきた。法隆寺の再建は、そうした「たたり」への供養の最も早い例なのではないか。たたりへの供養は、阿弥陀信仰と強く結びついている。阿弥陀様の慈悲によってたたりをなぐさめる、という考えが古代に広く信じられるようになって、それが後の阿弥陀信仰のさきがけとなった、というのが梅原の見立てのようである。これはこれで、阿弥陀信仰の由来話としてありえないものではないだろう。

というわけで、梅原は阿弥陀信仰を介して、聖徳太子と親鸞を強く結びつけるのである。これは非常に斬新な見方だ。親鸞が、和賛などを通じて、聖徳太子への敬慕を表明していたことは知られていたが、聖徳太子が親鸞の直接の手本であったとする見方はほとんどなかった。それを梅原は、聖徳太子こそ親鸞の宗教的インスピレーションの源だと断じたのである。梅原は、増谷ら正統の仏教学者とは異なり、親鸞と法然との間にある種の断絶を見るのであるが、その断絶を埋めるものが聖徳太子だと考えたわけである。

つぎに、親鸞の思想については、梅原は「教行信証」を中心にして考察している。「教行信証」は、関東にいる間に執筆されたものだ。親鸞の思想を体系だって述べたものではなく、経論からの引用が主体である。その引用文に親鸞自身の短い感想を付け加えるといった体裁になっている。しかし、引用された経論の文章の配列には親鸞自身の価値観が反映されているわけであるし、また短いながら親鸞自身の文章にも親鸞の価値観が盛り込まれている。だから、この「教行信証」を読むことで、少なくとも関東時代の壮年の親鸞がどのような思想を抱いていたかはわかるようになっている。その壮年期の思想に、梅原は親鸞の思想の特徴を見るのである。

まず、「教行信証」という題名。仏教用語として、教行証というのはあった。経とは仏典をいい、行とはさとりへの修行をいい、証とは仏教の正しさを示す証拠のことをいう。それらに親鸞は信を加えて「教行信証」という言葉を作った。信とは信心、現代的に言えば信仰の意味である。あえて信の一字を加えることで、親鸞は主体的な信仰を強調したと梅原は見るのである。

梅原は、「教行信証」に盛られた思想の中核を悪人正機説に見る。悪人正機説は、「歎異抄」の中でもっとも有名な部分だが、親鸞はそれをすでに「教行信証」の中で確立していたと見るのである。悪人正機説は、他力本願の思想と深く結びついている。善人は自力で成仏できるかもしれないが、悪人は仏にすがるほか救われる手立てはない。それが「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という言葉の意味である。自力では救われない悪人にこそ、仏は慈悲を垂れたまう。それは仏の平等心の現われである。その仏の万人救済の意思を表したのが、「無量寿経」の四十八願、とりわけ第十八願だとする。第十八願とは、悪人を含めたすべての人間を救済するという仏の決意を盛り込んだものだ。

教行信証には、真仏土、化身土という二つの極楽についての巻がある。これは源信以来の浄土のイメージを覆すもので、源信が説くような浄土は、真の極楽ではなく、そこに現われる阿弥陀も真の阿弥陀ではない、偽の阿弥陀、即ち化身仏であるとした。こういう考えには、浄土とは、源信の言うように死後に行くところではなく、生きながらにして成仏することだとする親鸞の基本的な思想が盛られていると見てよい。悪人正機説を合わせて、親鸞の思想の中核部分といえるものがすでに「教行信証」において確立されていたと見るのが、梅原の立場なのである。





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