新自由主義と反平等

| コメント(0)
雑誌「世界」の最新号(2021年11月号)が、「反平等」と銘打った特集を組んでいる。「新自由主義日本の病理」という副題をつけているから、新自由主義批判だと思ったら、思想としての「新自由主義」への批判的な分析は見られず、新自由主義がもたらした負の側面が列挙されているといった体裁である。その中には、ジェンダー間の不平等とか、外国人差別といった、今の日本がかかえる深刻な病理現象への言及はあり、それなりに有益ではあるが、新自由主義への原理的な批判が欠けているので、いまひとつ迫力がないという観は否めない。

新自由主義はもともと、資本主義の行き詰りを打破し、その生き残りを目的として始まった運動である。資本主義は第二次大戦後、資本の集中と集積を加速させる中で、一つには資本の有機的構成の高度化にともなう利潤率の劇的低下、もう一つは、社会主義化への傾向を強めていた。これは資本家階級にとって由々しい事態であった。利潤率が劇的に低下したことは、資本を運用することによる果実を期待できなくなるということであり、また、社会主義化の進展は、資本の犠牲の上になされていると受け取られた。そんな状況を前にして、もう一度資本がかつてのような利潤率を享受し、また、資本が国家によって不当な制約(高税率など)を受けることのなくなるように、制度を根本的に作りかえる必要がある。その必要性は緊急性を帯びている。もたもたしていると、資本は息の根を止められてしまうかもしれない。そうした危機感が、資本に新自由主義を追求させたのである。

資本の目的は、利潤率を高めることであるから、利潤率を低下させるような制度的な仕組みが徹底的に破壊された。労働法制による労働者保護制度を骨抜きにすること、利潤率を高めるために、独占規制はじめ、経営への国家による規制を撤廃すること。また、「行き過ぎた」社会保障制度を廃止ないしは縮小し、個々人に自助を強いること。そうした政策がセットになって組織的に実施された結果、利潤率は高い水準に回復し、社会保障に歯止めがかかった。その結果生じたのは、巨大な格差である。いまの日本は明らかに格差社会であり、その原因は、日本の場合には1980年代に始まった新自由主義的政策にある。欧米の場合にはもう少し早く、1970年代から新自由主義によるバックラッシュが起こっている。それを主導したのは、ハイエックにはじまりフリードマンに至る新自由主義経済学者であり、日本ではその亜流が新自由主義を主導した。かれらは経済学者であることに満足せず、それ(新自由主義的政策)を自ら実践してみせた。フリードマンは、チリのアジェンデ政権転覆に手をかし、その報酬として巨額の利権を手に入れたものだ。日本にもフリードマンの真似をして、私腹をこやす新自由主義の学者がいる。

だが、その新自由主義をもってしても、利潤率の長期的低下傾向に歯止めはかからなかった。それは資本主義に内在する本質的な傾向のためである。マルクスの指摘したとおり、資本の有機的な構成の高度化は必然的な勢いであり、それにともなって利潤率も低下する。とくに資本のグローバル化は、(国家による規制など)資本の自然的傾向をさまたげるような条件を無化する方向に働くから、資本はその本性を最大限に発揮できることとなり、世界レベルで収奪を追求した結果、資本の有機的構成の高度化は究極の段階に達し、それにともなって、利潤率は激的に低下する。各国の中央銀行によるゼロ金利あるいはマイナス金利政策は、その象徴的なあらわれである。その結果資本は有効な投機先を失い、あふれた金は金融投機にむかう。現代は金融資本主義の時代だなどとたわけたことを言って得意になっている者がいるが、要するに行き場を失った金が、金融市場という名の賭博場に集中しているだけのことで、資本主義の末期的症状であるに過ぎない。

斎藤幸平が指摘しているように、グローバル化した資本は、地球環境の破壊を進めている。その結果近い将来に地球は人間にとって住めない環境になると危惧される。そうならせないために斎藤は、脱成長を唱えているが、脱成長と資本主義は両立しない。地球を破壊から守るためには、資本主義をやめなければならない。今の地球社会はそこまできているのである。だから、資本主義を前提にしたうえで、地球環境にやさしい経済システムを模索したり、格差を緩和させるために分配を見直したりしても、それは効果の薄い弥縫策に過ぎない。地球を守るためには、マイナス成長に舵を取らざるを得ず、それを実現するためには、資本主義にかわるシステムを構築する以外にない。斎藤はそれを脱成長コミュニズムと言っているが、地球を守るという方向性には沿っていると思う。要するにもう、資本主義は、経済システムとしての有効性という意味でも、地球環境を守るという意味でも、時代遅れの、しかも危険なシステムというべきなのである。

雑誌「世界」の今回の特集には、そうした資本主義をめぐる原理的な考察が欠けているために、資本主義を前提としたうえで、多少の手直しで事態を乗り切れると考える安易さが指摘できるのである。





コメントする

アーカイブ