白蛇経異端審問:桐野夏生のエッセー集

| コメント(0)
「白蛇経異端審問」は桐野夏生の最初のエッセー集だ。いまのところ唯一のエッセー集でもある。日記の一部やショートストーリーも収載されているので、純粋なエッセー集というわけではない。折に触れて書き散らした短文を一冊にまとめたというところだろう。だから、全体をしめるようなテーマはない。話題は多岐にわたり、とりとめがないといってもよいが、それがまた魅力と言えないこともない。

書物のタイトルになった「白蛇経異端審問」は、雑誌に連載したシリーズものの評論。「白蛇経」というのは大げさな命名だが、桐野によれば、想像力への信仰だそうだ。その信仰にけちをつける輩がいるので、それに反駁するというのがこの連載文の趣旨だ。要するに、自分の作品に対する、腹が立つような批評にいちいち反応したということらしい。そんな批評を書く輩は掃いて捨てるほどいるだろうから、いちいち反応していては疲弊すると思うのだが、桐野は疲弊をいとわず反撃している。村上春樹のようには超然としていられない性分と見える。自身、わたしは律儀な性格なのだといって、むなしい反撃を繰り返しているというわけである。

たしかに桐野には、律儀なところがあるようだ。生来のものなのか、それとも主婦と作家の二束のわらじという生活が強いたものなのか。目の前に飛んでいるハエが気になって仕方がないといったふうに、自分に向けられている噂話のようなものにもいちいち反応しなければ気がすまないようである。

「白蛇経異端審問」は、林芙美子への言及から始まっている。桐野は林芙美子が好きらしい。「ナニカアル」という小説は林芙美子の戦時中の生き方をテーマにしたものだし、この本の中のほかのエッセーでも触れている。芙美子本人ばかりでなく、彼女の母親まで話題にしているから、よほど気になる存在らしい。桐野は、芙美子のうちに父性のようなものを感じるそうだが、それはあまりにもだらしない母親を持って、おのずから保護者的な態度を身につけた結果だろうと推測している。

他の作家への目配りばかりでなく、自分自身のことについても、かなりあけすけに語っている。彼女自身は、自分の作家としてのブレークポイントを「OUT」に見ているようだ。この作品で、彼女のいう「三人称多視点」の手法を確立したと言っている。それまでは、「一人称一視点」で書いていたのだそうだ。桐野の作品には壮大な物語性が強烈に働いていると日頃感じていたところだが、それは桐野自身の自覚的な創作手法から生まれたのだということが、あらためてわかる。

エッセーの話題は多岐にわたるが、小生がとくに面白いと思ったのは、中国のトイレのことと、キューバの女たちのこと。中国のトイレの汚いことは有名で、小生も中国旅行をした際に、その汚さに辟易したことがある。北京や上海のような大都市では綺麗なトイレが沢山あるが、地方に行くと昔ながらの汚いトイレばかりといった具合だ。汚いばかりではなく、トイレ内のプライバシーが全くないがしろにされている。いわゆる長溝式トイレで、前の人の尻を見ながら平然と排泄する。日本人には決してできないことだ。日本人は密林のジャングルの中でさえ、排泄するときは人目をはばかって一人になる。アメリカ人は逆で、尻を並べて排泄するのを好むというから、中国人はアメリカ人のほうに似ているのかもしれない(ロシアのホテルにも、便器を二つならべる風習がいまだに生きているらしい)。

ともあれ桐野は、「食べ物は手を抜かないのに、排泄には無頓着な中国人」が理解できないようだ。

キューバの女たちは、底抜けに明るいという。明るいだけでなく、あけすけでもある。その証拠に彼女たちは、外国人観光客の男たちをひっかけては、遊ぶのだそうだ。「セックスをしたところで、どうってことはない。売れるものは美貌だろうが体だろうが愛嬌だろうが、何だって売るわよ、と言わんばかりの自信と享楽。そんな女たちを、キューバではルチャドーラと呼ぶのだそうだ」。そう桐野は言うのだが、その言葉に嘲りの雰囲気はない。むしろうらやんでいる様子が伝わってくる。なお、ルチャドーラという言葉の意味をスペイン語の辞書で調べたところ、「女闘志」と書いてあった。なるほど。

桐野は映画をよく見るらしく、この本には映画の批評もいくつか収めてある。映画を材料にして自分の文明観を語るのが得意らしい。桐野が話題にあげた「KT」という映画は、小生も見たことがある。東京で白昼に起きた金大中拉致事件を描いた作品だ。この映画を桐野は、男の集団を作ろうとする本能のようなものに関連付けて見ている。桐野によれば、女には組織づくりの発想すらないという。それに比較して男は、何人かが寄り集まると、かならず組織作りをする。その組織のなかで、個々の男は「期待に応えようと努力するし、部下を育てて組織に自分の痕跡を残そうとする。出産の代替行為ではないかと思えるくらい律儀に」と指摘している。なるほどそういう見方もあったか。





コメントする

アーカイブ