気候崩壊と脱成長コミュニズム:斎藤幸平の資本主義批判

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雑誌「世界」の2021年10月号が、「脱成長ーコロナ時代の変革構想」と銘打って、地球環境を守るための特集を組んでいたが、それに斎藤幸平が「気候崩壊と脱成長コミュニズム」と題する一文を寄せた。斎藤はいまや「脱成長」論者の象徴的な人物となった感があるので、この特集を飾るものとしてはふさわしい文章といえる。

書かれていることは、「人新世の資本論」の主張を圧縮したものだ。人新世というのは、人類が地球にとって決定的な変動因子となる事態を象徴的な言葉で表したものだが、その場合、人類とは文字通り人類一般ではなく、人類のうちの特定の部分、つまり富裕層だというのが斎藤の主張である。その一握りの富裕層が、膨大なエネルギーを消費して、それによって環境負荷物質を放出し、地球を壊している。だからその破壊の原因となっている連中にその費用を払わせるのがスジだ、ということになる。

地球の富裕層とは、斎藤の言うグローバルノースのことである。日本を含めた先進資本主義国家によって構成される。そのグローバルノースが、グローバルサウスを収奪することで、資本主義的な成長が成り立ってきた。その無際限な成長への衝動が、グローバルサウスを搾取し、かつ地球を壊している。それを斎藤は環境帝国主義と呼ぶ。これに対して、グローバルサウスは反植民地主義を掲げて戦う必要がある。どちらに義があるかは、明白である。地球を守るためには、環境帝国主義を打倒して、脱成長路線に舵を切り替えねばならないからである。それによって富裕層は多少の不便をこうむることになるが、だからといってかれらに同情する必要はない。かれらの快楽の水準は、人類の平均の何倍にも達しており、その一部を切り取ったからと言って、絶体的な水準が劇的に下がることはないのだ。

資本主義は、金を持っているものが、大したリスクを負わずに金を稼ぎ続けることを可能にしている。アマゾンの創業者ベゾスはその代表的なものだ。ベゾスは、コロナ禍を逆手によって資産を倍増させ(これを惨事便乗型ビジネスと斎藤は「人新世の資本論」の中で呼んでいる)、連邦所得税をほとんど支払わずに、儲けた金で自分の趣味である宇宙旅行にうつつを抜かしている。そんなことが可能なのは、資本主義のシステムによって、ベゾスの私有財産が固く守られているからだ。しかしベゾスの私有財産を守るために地球が壊されてよいということにはならない。ベゾスのような金持ちは、地球の破壊にもっとも責任があるのだから、その責任を果たさせるべきだ、というのが斎藤の主張である。

そこから斎藤のユニークな主張である「脱成長コミュズム」が打ち出されてくる。これは私的所有にかえて公共財としてのコモンを重視する立場だが、それには、そうした立場を実現する主体が当然必要となる。改革の実践者といってよい。従来のコミュニズムは、労働者階級に社会変革の期待をかけていたが、斎藤はもっと多彩な人々を改革の担い手としてイメージしている。そのイメージの一端は、「人新世の資本論」で披露されていたが、かならずしも満足のいくものではなかった。この文章は、基本的には「人新世の資本論」の要約なので、変革の主体について詳細に論じてはいない。というかほとんど触れていない。ただ、私的所有を制限するための行動を起こすよう促しているだけだ。その行動を誰が担うかについては、ヒントさえ示されていない。資本主義批判は無論必要なことだが、その批判を行為に転化させる議論が欠けていると、掛け声倒れになる可能性が大きい。斎藤には、今後社会変革の主体についての議論を深化させてほしいものだ。

なお、この特集号には、寺島実郎が「日本経済・産業再生への道筋」という小論を寄せている。これは日本経済の産業構造の変化を分析したもので、それによれば、2019年時点で、第一次産業1.0パーセント、第二次産業26.0パーセント、第三次産業73.0パーセントとなっている。このことから寺島は、日本経済がかつてのように物づくり中心ではなく、サービス中心に変化してきていると指摘したうえで、政府の産業政策が依然物づくり中心なのはおかしいと指摘している。その最たるものは、円安誘導政策だが、それによって潤うのは物づくりを核とした輸出依存産業だけであって、その他の産業やほとんどの国民は、円安によって多大の不利益を被っていると主張している。

これは、あくまでも政府の産業政策を産業構造の実態にあわせろという議論だが、小生は違うニュアンスとして受け止めた。物づくりは伝統的な資本主義を支えてきたものだ。それが産業内におけるウェイトを減らしてしているということは、資本主義が伝統的なあり方から逸脱してきていることを意味する。そういう意味において、寺島の指摘は斎藤の脱成長の議論とつながるものがある。物づくりが相対的にも絶対的にもウェイトを落とすのであれば、物づくりを核とした経済成長至上主義とそれに伴う環境負荷物質の排出をとめるという議論が現実味を帯びると思うのである。そんな意味からも、成長至上主義的な資本主義のあり方に抜本的な改革を迫るという斎藤の主張には、大いに根拠があると言えるのではないか。

以上からあらためて言えることは、資本主義を克服して脱成長を目指すという議論には相当の現実性があるということである。問題は、資本主義を根本的に変えるために、行動を起す主体が誰かということである。斎藤には、このテーマについての踏み込みが足りないように思えるので、是非研究を深めてもらいたい。なにしろこのままでは地球が壊れるのはつい目先のことだ。うかうかとはしていられないのである。





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