木村榮一「ラテンアメリカ十代小説」

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木村榮一はラテンアメリカ文学の翻訳者で、数多くの作品を日本に紹介してきた。ラテンアメリカ文学が世界中に本格的に知られるようになるのは、20世紀半ば以降のことで、とくに1967年に出版されたガルシア・マルケスの「百年の孤独」が大きな役割を果たしたようだ。その後、文学の巨匠というべき作家たちが次々と登場し、ラテンアメリカ文学は20世紀後半以降の世界文学を牽引するものとなった。そんなラテンアメリカ文学を木村は勢力的に日本に紹介してきたわけだ。

そんな木村が、ラテンアメリカ文学を代表する作家たちをとりあげ、その魅力を紹介したのがこの本「ラテンアメリカ十大小説」(岩波新書)である。タイトルにあるとおり、十人の作家たちの代表作とその作風について紹介している。とりあえずこの十人の代表作を読めば、ラテンアメリカ文学とはどういうものか、おおよその見当がつくというわけであろう。

その十人の作家たちとは、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、アレホ・カルペンティエル、ミグェル・アンヘル・アストゥリアス、フリオ・コルタサル、ガブリエル・ガルシア=マルケス、カルロス・フエンテス、マリオ・バルガス=リョサ、ホセ・ドノソ、マヌエル・プイグ、イサベル・アジェンデである。これらの作家たちがどういう位置関係にあるかについて、木村は巧みな比喩をもちいて説明している。どの国の文学も、人間の生長にたとえられるような発展のプロセスをたどるというのだ。まず幼年期があり、ついで輝かしい青年期があり、成熟した成人期がある。ロシア文学についていえば、プーシキンやゴーゴリが幼年期を代表し、トルストイやドストエフスキーが青年期を代表し、20世紀の文学が成人期を代表するということになるのだろう。ラテンアメリカについては、それをスペイン語圏文学として一括すれば、1930年代から40年代にかけて幼年期があり、ボルヘス、カルペンティエル、アストゥリアスがその代表者となる。1960年代以降には青年期に達し、コルタサル、ガルシア=マルケス、フェンテス、バルガス=リョサがその代表である。ラテンアメリカ文学はその後も発展を続けるのだが、一応20世紀中に青年期を謳歌し終えたというのが木村の見立てのようである。21世紀にも引き続き発展を続ければ、それは成熟した文学となるだろうというわけであろう。

以上の作家のほとんどには大きな共通点があると木村はいう。それは二つあって、一つは彼らがヨーロッパ文化に通じていたということ、もう一つはラテンアメリカの土着の文化とつながっていたことである。この二つの組み合わせから、ラテンアメリカ独得の特徴が生まれた。それは時に「マジックリアリズム」と呼ばれることがあるように、現実の出来事と幻想的な世界との間に明確な境界線を持たず、したがって幻想的な語り方を通じて、現実の出来事が語られるというものである。これは木村によれば、ボルヘス以下ラテンアメリカの偉大な作家たちに共通する特徴なのであるが、それがもっとも明確に表れたのはガリシア=マルケスの「百年の孤独」だという。この小説はいまやラテンアメリカ文学の最高峰といわれている。たしかにその称号にふさわしい作品だ。単にラテンアメリカ文学の最高傑作というにとどまらず、20世紀の世界文学の傑作でもある。なにしろ、西洋的な意味での文学の概念を大きくはみ出し、文学の可能性を飛躍的に拡大させたといえる作品だ。

ガリシア=マルケスはこの小説を幻想的な語り口で語っていくのだが、それはかれの祖母が、からがまだ子供だった頃にかれに語ってくれた物語の語り口をそのまま採り入れたものだった。祖母にはインディオの文化が深く身についており、そのインディオの語り口で物語を語ったと言われる。その語り方は、西洋的な感覚では、幻想と現実の区別を設けないというものだったが、しかしインディオ的な感性にあっては、本来現実と幻想との間に区別などないのだ。祖母においては、現実の出来事について語ることは、普通の西洋人的な感覚では、幻想を語っているように思えるのである。そのように、幻想と現実との境界が明らかでなく、混然一体化しているというのが、ガルシア=マルケスの文学の特徴であり、その特徴をほかの作家たちも、多かれ少なかれ共有しているというのが木村の見立てである。たとえば、コルタサルの「石蹴り」は夢と現実とが入り乱れる魔術的な時間を描いているし、バルガス=リョサの「緑の家」は中世的な世界観がそのまま現代に生きているさまを描いているし、ドノソの「夜のみだらな鳥」は妄想と現実との相互侵犯を描いているといった具合だ。

ラテンアメリカ諸国は政治的に安定せず、動乱や権力による迫害が日常的に起きていた。そうした事情は作家たちにも大きな影を与えずにはおかない。この本で取り上げられた作家のほとんどは、権力による迫害の犠牲者となっている。その迫害を跳ね返し、人間らしい生き方を求めるというのが、かれらを執筆に駆り立てた動機にもなっている。そうした政治的なことがらを小説の直接的なテーマにしたものもある。アストゥリアスの「大統領閣下」やガリシア=マルケスの「族長の秋」などはその代表的なものである。イサベル・アジェンデなどは、ピノチェットによって倒されたアジェンデ大統領の親族ということもあって、ピノチェット政権から迫害を受けた。彼女の代表作「精霊の家」は、チリの百年の歴史をテーマにしたものであり、その点では、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」に通じるものがあるが、そこに描かれているのは暴力と権力の非人間性なのである。

こんなわけでこの本は、新書という体裁ながら、ラテンアメリカ文学を俯瞰する形で肝心な作品をほぼもれなく取り上げており、しかも的確な基準にもとづいてその特徴を説明しているので、一応ラテンアメリカ文学入門の機能を十分果たせているのではないか。

なお、あらためていうまでもなく、木村がこの本でラテンアメリカ文学と呼んでいるものはスペイン語圏の文学であり、ブラジルはじめポルトガル語圏のものは対象外である。スペイン語圏の文学は、セルバンテス以来の伝統があり、また文化的にもほかの西洋諸国に劣らないものがある。そういう豊富な伝統を、ラテンアメリカ独自の文化と接続することで、世界に類をみないユニークな文学世界を構築したわけだが、ポルトガル語圏には、そうした事情が働かなかった、ということではないようだ。たまたま木村がスペイン語を専門にし、スペイン文学の翻訳に従事していたということの自然な成り行きということのようである。






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