柄谷行人のプラトン批判

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プラトンが西洋哲学の伝統を創始したとは、大方の認めるところである。プラトンはその思想をソクラテスから受け継いだとされる。ソクラテス自身は文字で書かれた主張を残さなかったが、プラトンを通じてその主張の大要は知られている、ということになっている。そのソクラテスの思想こそが、プラトンを通じて西洋思想の根幹を作った。だから西洋哲学の思想は、ソクラテスに淵源を持ち、プラトンによって確立されたというのが、哲学史の常識となっている。かのニーチェでさえも、その常識をふまえて、西洋的な価値の転倒を、プラトンとその師匠ソクラテスの打倒という形で定式化したものである。しかしこれは根本的に間違った見方だと柄谷は言う。

伝統的な見方によれば、ソクラテスは、イオニアの自然哲学の否定者である。イオニアの自然哲学はもっぱら自然の原理について思考したが、ソクラテスは、人間について考えることこそが哲学の使命だと言った。無論ソクラテス自身は哲学という言葉を使っておらず、「問答法」とか「産婆術」という言葉を使っていた。だが内容的にはほぼ同じものである。その哲学を人間中心にしたことによって、ソクラテスは西洋哲学の創始者たる名声に浴した、というわけだが、それは事実と異なる、と柄谷は言うのである。

ソクラテスは、イオニア自然哲学の否定者どころか、そのサークルに属する思想家だというのが柄谷の見立てである。ソクラテスは基本的には、イオニアの自然哲学者と同じ問題意識を持っていた。それは一言でいうと、イソノミアを回復することであった。イソノミアは本来政治的な概念とされ、支配・被支配関係を伴わない絶体平等の人間関係を内実としたものだったが、そうした政治的な部面のみならず、自然の解釈においても、イソノミアの精神を重視した。哲学の部面におけるイソノミアとは、目的論的な視点をとらず、自然や人間のあり方を、あるがままの姿でとらえる姿勢のことを言う。そういう姿勢をソクラテスもまた共有していた。にもかかわらずプラトンは、ソクラテスをイオニアから断絶したものとして受け入れた。プラトンの語るソクラテスの姿は、「弁明」におけるそれを除いては、プラトン自身の勝手な思い入れを投影したものだ。

そのように柄谷は言って、プラトンに対して厳しい批判を加える。柄谷によれば、プラトンはソクラテスの思想を忠実に受け継いだわけではなく、かなり歪曲して伝えているということになる。もっともソクラテス自身は文字による主張を残していないので、かれ本来の思想がどのようなものだったか、詳しく知る由もない。かれの思想は、弟子たちによる言及を通じて間接的に推察するほかはない。その弟子たちとしては、プラトンとクセノフォンによって代表される流れと、犬儒派の創始者アンティステネスの流れがある。前者を大ソクラテス派、後者を小ソクラテス派というそうだが、ソクラテス本来の思想は小ソクラテス派に近かったのではないか、というのが柄谷の見立てである。しかし、その根拠を明確に示しているわけではなく、あくまでも柄谷の憶測にとどまると言えなくもないが、見方としては興味深いものがある。

プラトンがソクラテスの名において主張している思想は、イデアの理念とか哲人による統治とかいったものである。これらは、イオニアの自然哲学とは全く相容れないものなので、イオニア思想のサークルに属していたソクラテスが主張するとは考えられない。プラトンはソクラテスの名を使いながら、自分自身の思想を語ったというのが柄谷の推測である。ではプラトンはそうした思想のアイデアをどのようにして練りあげたのだろうか。柄谷はそこにピタゴラスを介在させる。イデアの理念とか哲人による統治といったものは、ソクラテスからではなく、ピタゴラス派から取り入れたと言うのである。

ピタゴラス自身は、柄谷によれば、もともとはイオニアの自然哲学のサークルに属していた。それがどういうわけか、イオニアに訣別して南イタリアで活動することで、次第に異なった思想を抱くようになった。ピタゴラスは数学を重視していて、数の関係性に注目することから、関係性こそが自然の本質を開示すると考えるようになった。関係性というのは、人間の思想の産物であるから、ここに観念的な色彩が極めて強い思想が成立したわけである。プラトンはそれを受け継いで、数の関係性から一歩進み、観念的な産物としてのイデアを、世界の本質だと考えるに至った。一方、哲人による統治については、ピタゴラスの挫折体験が影響しているという。ピタゴラスは、デモクラシーがかならず僭主制に転化することを重視し、デモクラシーは理想の統治形態ではないと結論付けた。その上で、哲人による統治を望ましいものとしたのだったが、そうしたピタゴラスの統治論をプラトンはそっくり受け継いだ。かれが「国家」の中でソクラテスに語らせていることは、ピタゴラスの思想にほかならない、というのが柄谷の主張である。

こういう具合に柄谷は、ソクラテスとプラトンをめぐる伝統的な解釈を転倒させて、ソクラテスとプラトンとの間に、連続性ではなく、断絶性を認めた。ソクラテスまでは、イオニア哲学の伝統がまだ生きており、それをプラトンが切断した。その結果、西洋の思想はイデアと現象をめぐる長たらしい議論にあけくれるようになり、自然そのものの本来の姿からますます離れていくことになった、というわけである。

なお、もうひとつ、ソクラテスの「産婆術」と言われるものについて。これは「問答法」とか「弁証法」とも言われるもので、要するに対話を通じて議論を深めるという方法のことをいう。その場合、ソクラテスは原則として相手の言うことに正面から反論しない。相手の言うことを肯定したうえで、そこから主張とは正反対の結論が導かれることを示すことで、議論を深めていく。こうした議論の方法を柄谷は「間接証明」といい、それがソクラテスが創始したものではなく、エレア派の論法を踏襲したものだとする。エレア派の論法は、ピタゴラスの観念論的議論を反駁することを目的としていた。その有名な例としてゼノンのパラドックスがあげられる。

ゼノンのパラドックスとして有名なのは、「アキレスは永遠に亀に追いつけない」とか「飛んでいる矢は永遠に的にたどりつかない」といったものだ。これは、もともとピタゴラスへの批判を目的とした議論で、ピタゴラスのように制止した静的なものを基準にするならば、運動はありえないと主張するものだった。ところが運動はじっさいにある。だから、ピタゴラスの主張には根拠がない、と言いたかったのである。

この議論を近代になってあらためて取り上げたのがベルグソンである。ベルグソンは、ゼノンがあたかも運動を否定するためにこの議論を持ちだしたかのように言っているが、それはゼノンに対する曲解であると柄谷は言う。ゼノンは静止によって運動を説明しようとすると矛盾に陥らざるを得ないと言っただけなので、運動そのものを否定したわけではない。だからベルグソンのゼノン批判はお角違いということになる。

ともあれ柄谷のこの著作の最大の目的は、イオニア哲学の復権にある。ソクラテスはそのイオニア哲学を復権しようとした最後の思想家であり、そのソクラテスとの断絶の上にプラトンの思想が成立した、というのがこの著作の概要である。著作の最後を柄谷は次のような言葉で締めくくっている。「ソクラテスはイオニアの思想と政治を回復しようとした最後の人である。プラトン的な形而上学・神学を否定するためには、ほかならぬソクラテスこそが必要なのである」





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