百年の孤独:ガルシア=マルケスを読む

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「百年の孤独」は、ラテン・アメリカ文学を象徴するような作品である。この作品が発表された1967年以前から、アストゥリアスやボルヘスなどが、ラテンアメリカ文学の旗手として知られていたが、ラテン・アメリカ文学はまだまだマイナーでローカルな分野だと受け止められていた。ガルシア=マルケスのこの小説は、そんなラテン・アメリカ文学を20世紀の世界文学の中心に据えたのである。いってみれば、ラテンアメリカ文学の輝かしい確立宣言の役を担ったわけである。

この小説を評する言葉として「マジック・リアリズム」というものがある。日本語に直訳すると、呪術的なリアリズムということになるが、その意味は、現実の出来事がそのまま呪術的な外観を呈するということである。ラテンアメリカには、独特の現実感があって、ヨーロッパ人の感性を以ては、はかれないところがある。そのはかりがたさを、マジックリアリズムという言葉であらわしたわけである。

リアリズムというから、現実を描いているということになる。無論小説であるから、現実そのものではなく、疑似現実というべきものだが、しかしあくまでも、我々が持っている現実感覚から離れることはない。作り物であっても、その素材は我々が生きている現実世界からとられたものという了解がある。

ところがガルシア=マルケスのこの小説は、そうした現実感覚とはかなり離れている。第一小説全体が、メルキアデスという奇妙奇天烈な予言者が、羊皮紙に記した予言の内容を実現したものという体裁をとっている。このことからわかるように、この小説は徹頭徹尾作り物の世界を描いているのである。作り物といって語弊があれば、物語といってよい。物語は現実の模写ではなく、想像力の産物である。この小説はそうした想像力の産物だとみてよい。

メルキアデスという名は、おそらくアルキメデスをもじったのであろう。アルキメデスは、錬金術師の間で人気の高いキャラクターだ。そのアルキメデスの分身と思われるメルキアデスは、小説の比較的早い時点で水に溺れて死んでしまうのだが、死ぬ前に羊皮紙に不思議な文章をサンスクリット語で書き記し、死んだ後も、何度ともなく幽霊となって現れる。つまりかれはそれ自体が呪術的な存在なのだ。この小説が呪術的リアリズムと呼ばれるとき、リアリズムの部分はともかく、呪術的な部分はこのメルキアデスの存在に負っている。

羊皮紙に書かれた文章は、小説の最後でブエンディア家の第六代ブエンディアたるアウレリアノによって解読されるまで、誰にも知られることがなかった。第六代のブエンディアによって解読された文章は、初代のブエンディアから豚の尻尾を持って生まれてきた第七代のブエンディアたるアウレリアノまでの、七代にわたるブエンディア家の盛衰が記されていたのである。だから、あらかじめこの羊皮紙に書かれたサンスクリット語の文章を読んでいたら、わざわざ自分の人生を生きるという面倒をかぶることもなかったのだ。

そんなわけで、この小説は、ラテンアメリカで生きたある家族の盛衰記という体裁をとっている。その盛衰記が、現実の出来事として、経時的に展開するのではなく、あらかじめ羊皮紙の上にサンスクリット語で書かれた物語が自己展開するという形をとっているわけだ。だからこの物語は、リニアな時間にそって進むのではなく、一つの円環を描いているのである。円環は、出発点に戻った後は、再び同じ円の上を循環するものだが、この物語もそのように循環するのか、それには触れずに物語は閉じられる。とりあえず大きな円環がひと回転したといった具合に。

この小説はある家族の七代にわたる盛衰を描いたものだといったが、その家族のあり方は、ラテン・アメリカ世界のコピーというか、雛形のような体裁をとっている。ラテン・アメリカの世界というのは、スペインからやってきた白人たちが作りあげたものである。原住民は住んでいたが、それらは白人たちによって世界の片隅においやられ、白人こそがこの世界の本来の住民であるといわんばかりに、かれらが自分の好きなような世界を作り上げていった。かれらの意識の中では、自分たちは無人の荒野を切り開き、文明的な都市を作りあげたということになっている。そうした意識は北アメリカの白人たちにも共通しており、それら北アメリカの白人たちも、ゼロから文明を築き上げたと思い込んでいる。原住民は、野獣と同じようなものであり、したがって殲滅の対象だった。北アメリカの歴史が、原住民へのホロコーストの上になり立っているのは明らかなことだ。だがさすがにそれを直視するのは忍び難い。だから、北アメリかの白人たちはなるべく原住民のことを意識しないようにしている。それに対してラテン・アメリカの白人たち、つまりスペイン人たちは、多少は原住民を意識することがあるらしい。だが、やはり自分たち白人と同じ人間とは認めていない。そうした心情を、ガルシア=マルケスも共有していたのであろう。彼の小説世界は、ラテン・アメリカを舞台にしているのだが、そこには原住民とその末裔は、何らかの意味をもった存在としては、ほとんど扱われていない。

ともあれ、この小説は、ラテン・アメリカらしさにこだわっている。ラテン・アメリカは、ヨーロッパ、それも主にスペインからやってきた白人によって形成されてきた歴史があるが、周知のように、政治は安定せず、社会はつねに敵対する勢力の抗争によって切り裂かれていた。ラテン・アメリカには、地方のボスが軍事力を持っていて、それが軍閥のような勢力を形成し、その軍閥同士が対立均衡しながら全体としての秩序を築きあげるというスタイルが支配的である。そうした軍閥をカウディージョというが、この小説に出てくるブエンディア一家もそうしたカウディージョの小規模なもの、ミニ・カウディージョである。一家の先祖たるホセ・アルディージョは、自分の仲間たちと放浪したあげく、マコンドという土地に植民したということになっている。このマコンドという地は、あくまでも架空の土地であるが、行間からは、コロンビア北部のカリブ海に近いところにあるというふうに伝わってくる。マコンドの近くにあるとされるリオアチャは実在の都市である。

この小説は、マコンドを拠点とするブエンディア・カウディージョの盛衰の物語として読むことができる。創設者であるホセ・アルカディオは、マコンドの都市国家としての基礎を築いたということになっており、彼の次男であるアウレリャノが、大佐となって敵対する勢力と戦うさまが、この小説の前半を形づくる。

小説の後半は、第四代ブエンディアたるホセ・アルカディオ・セグンドがアメリカ資本を相手に壮絶な戦いをするところを描く。ラテン・アメリカはそもそもスペイン人とポルトガル人が分割支配したところであるが、19世紀以降、アメリカ合衆国の力が及んできて、いわば半植民地化されるようになった。アメリカの先兵はさまざまなタイプの資本家からなっていたが、その資本家が、ラテン・アメリカを搾取した。その搾取と戦い、地元の主権を取り戻す役割を、ホセ・アルカディオが担うのである。

こういうわけでこの小説には、ラテン・アメリカの二大宿痾といったものへの、ガルシア=マルケスなりの痛恨の視線が込められている。この小説は、それらの宿痾を俎上ににあげることで、ラテン・アメリカ世界の政治的な統合とか、自主性の確立を訴えた、かなりメッセージ性の高い小説と評することができるのではないか。

なお、この小説の呪術的な部分についていえば、それをむしろ幻想的と言い換えたほうがよいと思う。呪術というのは、どうしても人を欺くというニュアンスに聞こえるが、この小説は人を欺こうとしいているわけではない。あくまでも、ラテン・アメリカという世界の断面を迫力をもって訴えることを目指している。しかし迫力を持たそうとずるあまり、語り方が大袈裟になるのは避けられないようで、随所に幻想を思わせるような記述が散在する。メルキアデスが幽霊となって繰り返し出てくるのはその顕著な例である。そのほか、初代のホセ・アルカディアの死の際に、小さな黄色い花が雨のように空から降ってきたり、二代目のホセ・アルカディオが拳銃で自分の耳を撃った時には、流れ出た血が、町全体に流れ広がったり、第四世代の小町娘レメディオスが、シーツに乗って風に運ばれていったり、最後の世代のアウレリアノが豚の尻尾を持って生まれてきたりだ。この一家には、豚の尻尾を持った子供が生まれるのは、この上ない不吉の徴なのだった。そのとおり一家は、豚の尻尾を持ったアウレリアノが死んで、その死体をアリどもが運び去ったことで、一家の命脈が尽きてしまうのである。そのほか、初代ホセ・アルカディオの最大のライバルであり、また親友でもあったプルデンシオも、幽霊となってマコンドを訪れるのである。






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