華厳経を読むその四:菩薩の十住

| コメント(0)
第三会は「忉利天会」と題して忉利天を舞台とする。忉利天は須弥山の頂にあって、帝釈天が主催している世界である。そこへ世尊がやってきて獅子座に結跏趺坐すると、その周りに無数の菩薩たちが集まってきた。その菩薩の中から、法慧菩薩が一同を代表して、菩薩の十住を説いた。この 忉利天会における説法以後、第六会までは、天上界での説法が続く。

菩薩の十住とは、菩薩が修行にあたって心得るべきことがら、あるいは目指すべき境地のことである。これ以前に、「浄行品」において菩薩の修行について触れられていたが、ここではもっと詳細かつ具体的に説かれる。

十住とは、初発心、治地、修行、生貴、方便具足、正心、不退、童心、法王子、勧請の十住をいう。

第一の初発心住とは、「一切衆生が無量の苦しみをうけるのを見て、ボダイの心をおこし、一切知を求めて、決して退くことがない」境地をいう。それを実現するためには、十の項目を学ぶべきである。すなわち、「諸仏をうやまい、供養し、もろもろの菩薩をほめたたえ、衆生の心をまもり、賢明なものに親しみ、不退の仏法をほめ、仏の功徳を修し、諸仏のみまえに生まれることをほめたたえ、方便によって三昧を学び、生死の輪廻を離れることをのぞみ、苦しめる衆生のために自ずから帰依所となることを学ぶべきである」

第二の治地住とは、一切の衆生に対して、大慈心、大悲心、安楽心、安住心、憐憫心、接受心、守護心、同己心、師心、如来心の十種の心をおこすことをいう。そのためには、十の項目を学ぶべきである。すなわち、「多く聞くことを求め、欲を離れる三昧を修し、善知識に近づいてその教えにしたがい、語るときは適切な時をえらび、心におそれをいだかず、仏法の深い意味をさとり、正法に了達し、仏法のとおりに行い、心の愚迷を離れ、不動心に安住すべきである」

第三の修行住とは、存在を観察する十の見方である。すべての存在は、「無常であり、苦であり、空であり、無我であり、不自在である。すべての存在はたのしむべきものではなく、集散もなく、永久不変のものでもない、すべての事柄は虚妄であり、そこには、努力も和合も堅固もない、とこのように観察すべきである」。そのためには、十の項目を学ぶべきである。すなわち、「すべての衆生の世界、真理の世界、地、水、火、風の世界、欲望の世界、かたちのある世界、かたちのない世界などを知ることを学ぶべきである」

第四の生貴住とは、十種の仏法すなわち、仏を信じ、真理を実現し、禅定に入り、また衆生、仏国、世界、諸行、果報、生死、涅槃を認知することである。そのためには、十種の項目を学ぶべきである。すなわち、「過去、現在、未来の仏法を修行し、過去、現在、未来の仏法を身にそなえ、一切諸仏の平等なることを観察すべきである。なぜならボサツは、過去、現在、未来の三世に明達して、心の平等を得ようとのぞむからである」

第五の具足方便住とは、十種の仏法を聞いて修行することである。すなわち、「このボサツの修するところの功徳は、ことごとく一切衆生を救い守り、一切衆生に利益を与え、一切衆生を安楽にし、一切衆生をあわれみ、一切衆生の人格を完成し、一切衆生をしてすべての災難をはなれしめ、一切衆生を生死の苦悩から脱出せしめ、一切衆生を歓喜せしめ、一切衆生をして煩悩を克服せしめ、ことごとく涅槃を得しめるようにすべきである」

第六の正心住とは、十種の事柄を聞いて決定心を得ることをいう。「たとい仏をほめたり、そしったりするのを聞いても、仏法のなかにおいて心は定まって動じない。真理をほめたり、そしったりするのを聞いても、仏法の中において心は定まって動じない。ボサツをほめたり、そしったりするのを聞いても、仏法の中においては心は定まって動じない。菩薩の行ずる真理をほめたり、そしったりするのを聞いても、仏法の中において心は定まって動じない。衆生の数は有限であり、あるいは無限であるというのを聞いても、仏法の中においては心は定まって動じない。衆生はけがれており、あるいはけがれていないというのを聞いても、仏法の中において心は定まって動じない。衆生は救いやすい、あるいは救いにくいというのを聞いても、仏法の中において心は定まって動じない。真理の世界は有限であり、あるいは無限であるというのを聞いても、仏法の中においては心は定まって動じない。世界は生成されており、あるいは破壊されているというのを聞いても、仏法の中において心は定まって動じない。世界は実在する、もしくは実在しないというのを聞いても、仏法の中においては心は定まって動じない」。そのためには、十種の項目を学ぶべきである。すなわち、「ありとあらゆることがらは、すがたのないものであり、本性のないものであり、修行することもできず、実在的でもなく、真実でもなく、自性もなく、あたかも虚空のごとく、幻のごとく、夢のごとく、響きのごときものである、と知るべきである」

第七の不退転住とは、何を聞いても、心が堅固であって、動転することがない境地である。それを実現するためには、十種の項目を学ぶべきである。すなわち、一は多であり、多は一であり、教えによって意味を知り、意味によって教えを知り、非存在は存在であり、存在は非存在であり、すがたを持たないものがすがたであり、すがたがすがたを持たないものであり、本性でないものが本性であり、本性が本性でないものである、と知るべきである。なぜならボサツは、あらゆることにおいて方便を得ようとのぞむからである」

第八の童心住とは、なにごとについても心を安定させることである。すなわち、「こころ、ことば、ふるまいにおいいて清浄となり、思うとおりに生を受け、衆生のこころ、ねがい、本性、業を知り、世界の生成消滅を知り、神通自在で、さまたげられることがない」。そのためには十種の項目を学ぶべきである。すなわち、すべての仏国を知り、観察し、振動し、持ち続け、また、すべての神通によってさまざまな身体になり変わり、無量の音声を理解し、一念のなかに無数の諸仏をうやまい、供養することを学ぶべきである。なぜならボサツは、種々の方便によって、すべてのことがらを完成しようとのぞむからである」

第九の法王子住とは、あらゆることがらを理解している境地である。あらゆることがら、すなわちすべての存在を法という。その法をすべて理解するものは法王と呼ばれる。法王子住とは、その法王の境地に安住することをいう。そのためには、十種の項目を学ぶべきである。すなわち、「法王の住するところ、法王の立ち居振る舞いの作法、法王のところに安んずること、たくみに法王のところに入ること、法王のところを分別すること、法王の真理をもちこたえること、法王の真理をほめたたえること、法王が完全に真理を実現すること、法王のおそれることのない真理、法王の執着をはなれた真理、などを学ぶべきである。なぜならボサツは、すべてのことがらにおいて、さまたげられない智慧を得ようとのぞむからである」

第十の勧請住とは、あらゆる種類の智慧を完成することである。「はかりしれない世界を振動し、照らし、もちこたえ、きよめ、そしてその世界に遊び、また、測り知れない衆生の、こころの動き、身のおこない、感官のはたらきを知り、種々の方便によって衆生の煩悩を克服し、解脱を得しめる」。そのためには十種の智慧を学ぶべきである。すなわち、「過去現在未来の智慧、一切の仏法の智慧、真理の世界はさまたげられないという智慧、真理の世界は無量無辺であるという智慧、すべての世界を照らし、もちこたえ、充実せしめる智慧、すべての衆生を分別する智慧、無量無辺の仏の智慧、などを学ぶべきである。なぜならボサツは、ありとあらゆる種類の智慧を身につけようとのぞむからである」

以上、菩薩の十住とは、ボサツの修行が目指すべき境地であるといえよう。その境地の実現に向かってボサツはいかなる修行をせねばならぬか、それを説いたのが「十住品」ということになろう。





コメントする

アーカイブ